“おやじのつぶやき”は、団塊世代の読者を対象とした新聞特集号に掲載していただいたおやじの駄文のテーマである。
3ヶ月に一回の掲載(2008年春号より)ではあったが、これまで発表することもなかった(できるわけがなかった)私の駄文を多くの人にみていただくことになり、なんやらうれしいやらはずかしいやらの栄誉であった。
2年間で計8回掲載していただき、さて3年目は・・・と考えていたある日、新聞社から電話をいただいた。
「おやじのつぶやき、毎回、ありがとうございます。」
「いえいえ、駄文でお恥ずかしい限りです。」
「今の特集号ですが、少し見直したいと考えています。これまでおやじのつぶやき、ありがとうございました。」
「はぁ。どうも、ありがとうございました。(なんだ、終わっちゃったよ)」
「それで見直しですが、環境の特集面への掲載はどうですか?」
「かんきょ・・・う?」
改めて自己紹介をするのもどうかと思うのだが、私は長い間環境に関わる仕事をしてきた。いわゆる“環境おたくおやじ”である。そのおたくおやじに向かって「環境の特集面」への投稿とは・・・うふふ。
「はい、環境の話は得意ですので大丈夫だと思います。(後悔しないでね・・・うふふ)」
「それで、そのおやじのつぶやきですが・・・。」
「はぁ? つぶやき?(なにも、環境特集にまでつぶやかなくても・・・)」
「はい、環境をテーマにしなくてもよいですので、おやじのつぶやきを毎月掲載していただけませんか?」
「はぁ。」
「それとも、毎月は難しいですか?(毎日でも良いけれど、やっぱり“おやじのつぶやき”なのね?)」
「いえ、環境の話ならばそれなりに自信はありますので。(でも“つぶやき”なのですね)」
『はじめませんか、エコな暮らし』と呼びかけるこの特集は、私も楽しみながら読ませていただいている。鳥取県の環境問題や市民の取組を足下目線で伝えている特集記事だけに、そこにおやじがつぶやくのもいかがなものかと思ったのであるが、よくよく考えてみればおやじの論はしょせんおやじのつぶやきである。いくら環境の仕事が長かったといえども、これまでの私の経験などというものはまったく役にたちそうもないという結論に至った。
常々「環境問題」の難しさは、「科学」や「経済」の難しさというより「人間らしさ」の難しさだと思っている。科学による解明の限界とか経済原理主義といった言葉が環境問題の本質にあるという人もいるが、決して目の前の課題だけを解決することだけが正しい手法とは思えない。
例えば、環境問題解決の終着点をどこに置くかを思い浮かべることにより、解決のための手法も解決後の姿も案外簡単に見えてくるのではなかろうか。
おやじたちは、その終着点をよく「子どもの未来」と気勢を吐く。
子どものためならば、大人はがまんとの理論でもある。もし先行きが分からない課題であれば子どもの視点で物事を考え、危ういものには予防的措置をとりながら行動するという子育て理論である。
その手法に科学的根拠が無くとも、また徒労に終わろうとも、「子ども」という大切な宝を磨くための行動と考えて納得することに価値を見出したい。具体的な行動を見出すことができない場合は、おやじ的には「何もしないじっとがまんの努力」がよい。そして、その姿を子どもたちにしっかりと見てもらうことである。
子どもといえども5年、10年もすれば立派な大人になる。その時、彼らの目にがまんしながら何もできなかったおやじたちがどう映っていたのか、ゆっくり考えながら未来に想いを馳せて見るのもよいのではなかろうか。
かくして“団塊のおやじ”から“環境のおやじ”に衣替えをして、つぶやきがはじまった。
団塊おやじの時もそうであったが、掲載していただく駄文は結構短い。
もともと文章を書くことは苦手であったのでちょうどよいと言えばそうなのであるが、せっかくだから少々目立ってやろうと、鳥取環境大学卒業生のR嬢に電話をかけた。R嬢が書くイラストは、おやじのお気に入りである。これまでもホームページなどに掲載する駄文にイラストを付けていただき、それらしく見映えをつけてくれた。いわばおやじの駄文隠しの恩人である。快くイラスト作成を引き受けたR嬢の期待にも応えたいと心に決めながら、パソコンに向かうこととした。
しかし繰り返しで申し訳ないが、しょせんおやじの論はおやじのつぶやき以外の何ものでもないことを改めて知ることとなったのである。
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