東郷池は、山陰八景の一つに数えられる風光明媚な池だ。周囲約12km、面積約4kmの汽水湖で、鶴が大きく翼を広げたような形をしていることから、「鶴の湖」の愛称で親しまれている。
日本史の教科書に出てくる「東郷荘絵図」は今から約750年前の鎌倉時代中期に描かれた絵地図で、当時の荘園制度を知る貴重な資料だ。しかもその姿は今もこの地にある。東郷池をながめながら、絵図にかかれている社殿や民家、放牧された馬、船など、東郷池と密接な関係にあった当時の生活を想像するのはほんとうに楽しい。
湖中からは温泉が湧き出し、西岸には“はわい温泉”、南岸には“東郷温泉”がある。
近年この観光地を訪れる人は減少し、この貴重な観光資源がその機能を十分に発揮されないままとなっているのはたいへん残念である。湖底から湧く温泉は、支笏湖、奥多摩湖、山中湖、湯布院にも負けないネタであるし、かつて湖上に浮かんでいたという龍湯島と芸者「葉玉」のエピソードは、韓国の宮廷女官の立身出世物語である「チャングムの誓い」にも似た壮大なストーリーが描けそうだ。
<引用 東郷町誌(東郷町誌編さん委員会/編)より抜粋>
その家(注・龍湯島)にはぎょくと言ふうつくしい声のげいしゃがゐて、しゃみせんが上手で、長うたやぎだいふがことにうまく、静かな夜は、そのうたふ美しい声としゃみせんの美しい音が東郷池にひびきわたったと言ひます。やがてこの美しいはぎょくはひょうばんになって大へんなにんきをよんで、これを聞きたいこれを見たいで、はるばるよそから遊びに来る人で、大はんじゃうしたとのことです。 さうしたはんじゃうもかうしたにんきも、うつりかはる世の中とともにいつまでもつづかず、美しいはぎょくも死に、にんきはおち、温泉は次第に出なくなるといふのでそのままになり、とうとう十二・三年あとにその池のところはうめたてられて、今は島だけ残ってゐます。<ここまで>
同じく東郷町誌には、東郷池で操業する漁師の間で受け継がれた漁場を示す呼び名について記録が残されている。東郷池をぐるりと囲む形で合計70カ所につけられたこの漁場名は、陸上の地名から由来したもの、禁漁区を表すものなどのほか、近くの温泉旅館の名前からとったもの、漁師の網に仏像がかかったという伝承話に由来したものまであり、まさに自然とともに暮らす当時の人々の知恵や文化を伺うことができる。
私はこれらすべての素材がうらやましくていつもやきもちを焼いてしまうのであるが、このすばらしい素材は近代の世情により失われてしまった。その失われた様子を、鳥取県衛生環境研究所の宮本 康特別研究員は、著書「東郷湖物語」で“東郷池の水環境の変化と住民のかかわり”として紹介している。
宮本研究員は、昭和30年代までの東郷池を「豊穣な時代」とし、東郷池と周辺住民の生活との関わりが良好な自然環境の維持にたいへん重要であったと指摘している。
東郷池から獲れる魚介類は、地元住民により消費され、また観光地の大切な料理の材料となった。肥料として使われていた水草は、今日の環境にやさしい農業のそのものである。湖畔の石を組んだ洗濯場は、主婦たちの大切な情報交換の場であり、浅瀬は子どもたちの格好の遊び場であった。
当時東郷池で遊んでいたという小学校の先生は、一度水に潜ると5匹のフナを捕まえたという。2匹はズボンの両ポケットに。右手と左手に1匹づつ。そしてあと1匹は口にくわえるのだそうだ。仕事にいそしむ大人たちに守られながら、思い切り自然の中で遊ぶ子ども達は、大人になってもふるさとを忘れることはない。
Hおやじの得意なフレーズを思い出す。
「子どもたちは遊びの中で、ふるさとを覚えます。ふるさとを覚えると優しい心が育ちます。わたしたちのふるさと湯梨浜には、優しい心を育てる風が吹いています。」
昭和40〜50年代の状況は、「環境問題の時代」と紹介している。
まず、湖水の透明度が低下し、水草も激減した。そしてアオコの発生。池で泳ぐ人もいなくなり、東郷池と住民の繋がりが消える。
昭和48年、強風により湖底に溜まったヘドロが浮上し、年間漁獲量の7割強にあたる約300トンの魚が一斉に死んだ。当時の新聞には「酸素不足か」との推測が報じられているが、宮本研究員はその原因を湖底のヘドロだと分析している。
日本の高度成長期を経て豊かな国へ変貌したこの時代。その代償として払った環境破壊は、大切な人々と東郷池のきずなまで断ってしまった。
平成以降の東郷池は、「回復の予兆」と紹介している。
透明度に改善の傾向が見られ、水草の分布が拡大し始めた。これと併せてエビ類が増え、メダカやトンボも増えてきた。しかしこれらの兆候は沿岸部の浅場のみであり、やはり湖底の南半分に広がるヘドロ地帯は無生物地帯である。このヘドロ除去には相当な経費がかかる一方で、効果の持続性に問題があるとされている。
依然として様々な課題を抱える東郷池ではあるが、東郷池に関わる住民活動が見え始めた。
宮本研究員は、これを「明日の東郷湖」と紹介している。
地元の人々は、衛生環境研究所で何回も勉強会を開催した。昔の東郷池の姿を思い出し、情報を集め、これから何をすべきなのか研究員たちと議論を重ねた。そして、汚濁の原因となる窒素、リンを生物の力をかりて間接的に取り除くという試みに、地元の人々が動き始めたのだ。
地元の小学生も池底から水草を取り上げ、昔のように堆肥化するという学習を試みた。そして「サケの飼育放流プロジェクト」と結びつけ、サケの通り道となる池を少しでもきれいにしたいという想いを膨らませるのである。
東郷池周辺の下水道整備は、ほぼ終了している。しかし鳥取県が掲げた環境基準の達成は、困難であることを誰も疑わない。その中で、地域住民・事業者・行政の協働による浄化活動、環境学習、生態系の回復を目指す取組が始まったのである。その原動力は、東郷池という自然と人間のかかわりの大切さの再認識にあると考える。
環境問題は、科学技術との戦いでもあるが、心の問題でもある。
宮本研究員のこの論文は、この環境の心を多くの人に伝えた。東郷湖物語が示唆したように、東郷池の水質汚濁は経済成長に原因があるが、人の生活と密着していた東郷池が、生活と離れた時に生じた副産物と考えるべきであろう。
実は、私の住む街にもまったく同じ経緯がある。賀露町は漁師の街。海や川にはゴミがたくさん浮いていたが、水はきれいであった。しかし、生活がどんどん豊になるにつれて大人たちは外へ職場を求め、街中から姿を消した。ゲームやおもちゃが子どもたちを家の中に閉じ込め、外には人がいなくなった。同時に海や川の汚れが進行していくのである。
経済成長と豊かな社会を否定する気は毛頭ないが、豊かな生活の副産物と正しく向かい合うための心の育成は必要である。心の育成の場は、自然の中にあり、また肌が触れ合い心を通わす人間関係の中にある。
自然は、人に対してやさしさときびしさを教えてくれる。自然と向き合うことを知らないままに育つ子どもたちは、人に対してもやさしくなく、またきびしくもない。限られた空間の中では、妄想に近い発想力しか育たない。そのような発想力からは陰湿ないじめや自殺、心の病といったものしか生まれないであろう。
環境問題への取組は、単なる自然の保全とか修復作業といった視点のみで捉えてはいけないと考える。経済活動の修正であり、地域づくりや子どもの心を育む活動でもある。もし最終目標を、私たちの財産である子どもたちに正の財産を残すこと、少しでも負の財産を減らすことと考えれば、豊かさという価値観もずいぶんと変わることであろう。この価値観の修正こそ、環境問題への取組の最も大切な視点ではなかろうか。
(参考文献)
東郷湖物語 〜湖の自然と人々の暮らしの変遷〜
鳥取県衛生環境研究所 特別研究員 宮本 康
|
(追記)
ずいぶんと鼻息を荒げながら続・東郷池をつぶやいてしまったが、経済成長は大歓迎であるし、一杯飲みたいおやじであるから若干のお金は稼ぎたい。かといってぐうたら生活を直そうという気もさらさらない。
この私の価値観は、死ぬまで直らないかもしれないなぁと大いに反省している時、東郷池で活動されている方々の新年会にお呼ばれをした。
いただいた案内状には「東郷池自然再生のつどい〜ツルへの恩返しメッセージ〜」とあり、私も一言メッセージを述べさせていただいた。その時紹介したのが、昭和48年の魚の大量死をモチーフに、おやじの想いを昔話風につぶやいた拙文である。
|
鶴への恩返し
<東郷湖物語・番外編>
|
昔、昔あるところに1羽の鶴が住んでいました。
村人と鶴はたいへん仲がよく、いつも一緒に暮らしていました。鶴は、村にある小さな池から貝や魚をとっては、村人にわけていました。村人は鶴からもらうごちそうが楽しみで、貝のお汁やフナの煮物を作って食べていました。
子どもたちも鶴と一緒に遊ぶのが大好きでした。鶴と一緒に池で水浴びをしたり、魚をとったりしました。村人は、水草を肥料にして野菜をつくりました。子どもたちは、葦で笛をつくって皆で歌を歌いました。
村人は貧しかったけれど、皆働きものでした。朝早くから夜遅くまで一生懸命働き、子どもたちは鶴と一緒に仕事のお手伝いをしました。
一生懸命働く村人たちの暮らしは、だんだん豊かになってきました。
鶴が運んでくる貝や魚のほかにも、たくさんのおいしい食べ物を食べることができました。畑で作る作物とはまったく違う、珍しい食べ物も手に入るようになりました。そのうち村人は、鶴が運んでくる貝や魚より、村の外から入ってくる食べ物ばかり食べるようになりました。
子どもたちも鶴と一緒に遊ぶことより、親からもらったおもちゃで家の中で遊ぶことが多くなりました。
鶴は、村人たちの暮らしが変わっていくことを知りませんでした。
毎日一生懸命食べ物を運び、子どもたちの姿を探していました。でも、誰も鶴が呼びかける声に気がつきませんでした。それでも鶴は、何度も何度も村人に貝や魚を運び、子どもたちと一緒に遊ぼうと呼びかけました。
ある日の晩、村に大きな風が吹きました。
これまで見たこともない大きな風に、村人はびっくりしました。
風がおさまった翌朝、村人が池に行ってみると、なんと数百、数千の死んだ魚で水面が埋めつくされていました。村人たちは、またまたびっくりしました。
皆で死んだ魚を池から引き上げようとしたのですが、池の中に入ることができません。昨日まで清んでいた池の水は汚れ、底には黒くてくさい匂いのする泥がたまっていました。池の周りに生えていた葦も、水の中に生えていた水草も、すっかり姿が無くなっていました。
そのうち、もめごとやけんかも起こりました。子どもたちはこわくて家の中に閉じこもったままで、外に出ることができませんでした。
ある村人が、鶴の姿が見えないことに気付きました。
それから大人も子どもも、皆で鶴を探し始めました。でも、鶴の姿を見つけることはできません。誰もが、「あの大きな風は、悲しくなった鶴が飛んで行ってしまった時にふいたのだろう」と言いました。
村人は、鶴が運んでくれた貝や魚をもう一度食べたいと思いました。子どもたちも、鶴と遊んだ楽しい日々を思いだし、また一緒に遊びたいと大人にねだりました。村人は、何日も何日も鶴を探しました。
ある日、村の外れにある小高い山に登ったとき、夕日を浴びて銀色に光る鶴が飛んでくるのを見つけました。大人も子どもも大喜びです。鶴は村の小さな池に向かって飛んできました。そして、すっと池の中に飛び込みました。
その瞬間、小さな池は鶴の形をした大きな湖になりました。
村人は急いで山を駆け下り、湖のほとりにたどり着いて驚きました。真っ黒だった池の水はもとの清んだ水にもどっていました。水草も小さなめだかやこぶなの姿もありました。村人は、もう鶴のことを絶対忘れないで、湖になった鶴と一緒に暮らしていこうと誓いました。
|
|
つぶやいた日 2008.1.20
一部書き直し 2010.10.31
|
<目次へ>
|