貝殻節考
 

ホーエンヤ祭り海上行列(昭和のはじめ〜戦前の頃)

〜 賀露神社HPより 〜


「何の因果で貝殻こぎなろた 色は黒なる身はやせる」 イタヤガイ漁の辛さを唄った労作歌貝殻節は、橋津、泊、青谷、浜村、賀露に伝わっていると聞く。その起源は不明だが、不思議な魅力を持つ唄である。

昭和初期の新民謡ブーム時につくられた浜村の貝殻節は、映画夢千代日記で全国的に有名になった。賀露の貝殻節は民謡家浜沢長三郎氏により力強い民謡にアレンジされ、橋津では労作歌特有の素朴な節回しの貝殻節が伝えられている。地域や時代によって、歌詞やお囃子も変化しているようだ。

江戸期以降のイタヤガイ大発生は明治4年。その後小発生を繰り返し、大正13年には明治4年を上回る大発生があった。一方海運業で発展した鳥取の港は、明治以降陸路の整備とともに商用機能が衰え、明治末期に山陰線が開通した後はほとんど衰退した。現在唄われている貝殻節は、港の人々が漁業へ活路を求めたこの時代に形が整ったのかも知れない。

「自分の意に沿わずに漁師になったが、辛い仕事に負けそうだ。しかし私の気持ちを知って笑顔で送り出してくれる母や、帰りを待ってくれる愛しい妻子のためにやめることはできない。この港でずっと苦労を続けている漁師たちのように」 労作歌が愛の唄に聞こえた。

 日本海新聞 2018.9.28掲載
おやじの貝殻節考 2020

2018年5月、町内の方より「賀露誌映像ライブラリー」というDVDをお借りしました。そのDVDに集録されている「賀露漁民に伝わる貝殻節」にたいへん興味を持ち、それ以降、貝殻節の節回しがしばらく頭から離れません。貝殻節の歴史を調べようとネットで検索したところ、「青谷元唄貝がら節物語※」というホームページを知りました。そこに掲載されている貝殻節の研究に感銘を受け、ますます貝殻節について知りたくなったのです。
※ 鳥取市浜坂にお住まいの「砂丘仙人」さんのホームページに掲載

いったい貝殻節は、いつの時代に、だれが、どこでつくったのでしょう?
あれこれと調べてみたものの、結局よくわかりません。よくわからないことばかりですから、最後は自分勝手に解釈し、納得してしまいました。これは妄想ともいえる暴挙です。でも、所詮はおやじのつぶやきですので、誰にも迷惑をかけることではないでしょう。
わがままおやじの、おやじ的貝殻節考をご紹介します。

           
        大正15年(1926)当時の賀露港の様子 賀露神社HPより

全国的に有名な浜村の貝殻節は、昭和7年に作曲家三上留吉が採譜し、松本穣葉子が新しく作詞して、翌8年2月レコードになったものです。「青谷元唄貝がら節物語」には、その経緯が詳しく記述されています。

『浜村温泉を宣伝するために、駅前の上田レコード店が発起人となり、松本穣葉子(作詞者)、三上留吉 (付小の音楽の先生)ら数名が「旅館たばこや」に集まり、A面に浜村小唄を作ったものの、B面をどうするか悩んでいた時、穣葉子が口ずさんだ貝がら節がきっかけとなって、B面が貝がら節となったようである。洋楽方法では採譜出来ず困っていた時、たばこ屋の女将、鈴木キヨが歌った唄が元になったようである。』

地域に生まれ、後世に伝えらる「民謡」とは、「不特定多数の民衆によって自由に伝承されているうちに自然と形になった歌(ウィキペディア)」のことを言います。口承歌ですから、時代とともに様々な変化を辿ることと思います。その時代の背景が強く反映された歌詞とか、文化芸術的要素に富んでいて多くの人の共感を得ることが出来たものであれば、元唄をそのまま伝えることができるのかも知れません。しかし伝承途中に様々な人の手によってアレンジされたとしたら、元唄の姿を伺い知ることは難しいでしょう。

ともあれ浜村の貝殻節は、新民謡ブームという当時の時世に乗りながら有名になりました。全国的に知られることになったのは、映画「夢千代日記」の挿入歌に用いられてからです。哀愁を帯びた樹木希林さんの歌は吉永小百合さんの舞を一段と引き立てました。命と戦う主人公の運命が貝殻節の歌詞と重なって多くの人の涙を誘ったのでしょう。貝殻節の持つ魅力を存分に活かしたこの映画は、貝殻節の大切な史実の一つに違いありません。

さて、貝殻節が伝えられている地は、鳥取県内に6か所あるそうです。貝殻節のルーツは、このいずれかにあるのは間違いなさそうです。

    

賀露誌には、「文化・文政年間(1804〜30)のころ、賀露の漁師によって唄いだされたものと古老が伝えている」とあります。
青谷元唄貝がら節物語には、「賀露のホーエンヤ貝がら節について賀露神社の岡村宮司の話によると、唄の節回しは、賀露神社の禰宜唄に貝がら漁の歌詞がついたが、いつ出来たかは不明」とあります。更に「貝殻節のお囃子は相屋(あいや)神社のお祭りお囃子言葉がそのまま使われている」とあり、「青谷がルーツ」としています。
また湯梨浜町の「ふるさと橋津」という記録誌には「元唄は浜村が発祥の地であったわけではなく、港のあった橋津や泊にもあったもので、あるいは橋津の方が浜村より古いではないかといわれる」、鳥取伝統芸能アーカイブスには「泊貝がら節が唄われ始めたのは約170年前江戸時代後期といわている」とあります。

民謡はその地の文化であり大切な財産ですから、地元の記録誌や宮司さんのお話はどれも説得力を感じます。記録の中に「賀露のホーエンヤ貝がら節」とか「泊貝がら節」と前置きがあるのは、「ルーツは一カ所」と考えるのではなく、前述6地区それぞれに貝殻節のルーツがあったと考えることができるかもしれません。しかし各地区の貝殻節には共通部分も多く、そこには奥深い歴史が潜んでいるように思えます。
「いつの時代に、だれが、どこでつくったのか」
私の中に、貝殻節に潜む史実を解き明かしたいとう欲望が膨らんできました。

貝殻節が生まれた背景を紐解くために、鳥取県の貝殻漁の歴史を調べてみました。
貝殻節は貝殻を採る時の労作歌ですから、貝殻がたくさん採れた時につくられたと考えたいです。泊村(現鳥取県東伯郡湯梨浜町)の村史に板屋貝が豊漁だった年の記録を見つけました。「鳥取県では、昔から、周期的に帆立貝(板屋貝)が大発生して大豊漁することが何度かあったが、このような年を『貝殻年』と呼んでいた」とあり、その貝殻年の記録です。

<年表 泊村漁業の主な歩み(抜粋)>
 延享4年(1747)大豊漁 他国へ移出す(御船手御定)
      漁師はこのころまでは肥料として売っていた
 文政元年(1818)大豊漁(藩史 殖産商工志)
   7年(1824)同(同)
 天保5年(1835)泊、青谷灘帆立貝大漁
      此地の繁栄言語に絶えたり(県史 天保厳秘録)
      干身にして長崎へ送る(県史 天保厳秘録)
   7年(1837)大豊漁(藩史 殖産商工志)中国に輸出(県史 近代・水産業)
   8年(1838)同(同)
 嘉永6年(1853)同(同)
 安政元年(1854)同(藩史 殖産商工志)長崎へ送る
   2年(1855)同(同)
   3年(1856)同(同)
 明治4年(1871)同(県史 近代・水産業)
   5年(1872)同(同)
   6年(1873)同(同)
 明治22年(1889)同(泊村年譜)
   35年(1902)同(県史 近代・水産業)
 大正14年(1935)同(泊村年譜)
 昭和4年(1927)同(同) 貝殻年は、昭和4年の大豊漁が最後

肥料であった板屋貝が食用に用いられるようになった江戸時代後期、貝殻漁で港が賑わった様子が伺われます。賀露誌にある「文化・文政年間のころ、賀露の漁師によって唄いだされた」という記録や、鳥取伝統芸能アーカイブスにある「泊貝がら節が唄われ始めたのは約170年前江戸時代後期といわている」という記録とも合致している様に思います。

しかし、江戸時代の漁業制度から考えると少々疑問が残りました。
鳥取県史によると、江戸時代の漁業は磯漁と沖漁があり、磯漁には「運上・夫役」という税金が課せられ、沖漁は漁村が限定されていました。因幡国では、大羽尾、網代、田後、船磯、酒ノ津、夏泊。伯耆国は泊、赤崎、御来屋、淀江です。貝殻漁は沖漁ですから、賀露ではこの時代貝殻漁はできなかったと思われ、「賀露は貝殻節発症の地ではない」ということになります。

貝殻節が伝えられている地と沖漁が許された地を重ねると、青谷と泊が浮かんできます。
青谷元唄貝がら節物語には、「漁獲量と売り上げが伸びる事に着眼した鳥取池田藩は、漁獲量に比例して加税しており、それに合せて鋤簾のサイズが1メートルから4〜5メートルに大きくなって行き、鋤簾を引く櫓こぎの辛さを歌で紛らわすために歌われだしたのが貝がら節」とあり、歴史的背景とよく一致します。また泊の記録も青谷と同様に、発祥の地と考えることができそうです。 

           
            大正初期の底曳船 賀露神社HPより

ここまでを整理すると、貝殻節は「貝殻漁が盛んだった江戸時代の後期、青谷、泊あたりで生まれた」となります。
しかし、賀露神社の岡村宮司さんの話である「唄の節回しは、賀露神社の禰宜唄に貝がら漁の歌詞がついたが、いつ出来たかは不明」という記録が気になります。神社に残るお話を簡単に否定したくはありません。「禰宜唄」がどのような唄なのか分かりませんでしたが、お神楽のようなものだったと推測しました。「貝がら漁の歌詞」とは、そのまま「貝殻節の歌詞」と考えて良いと思います。鳥取伝統芸能アーカイブスによると「一説によれば、賀露の唄は貝殻節と呼ばず、かつては『ホーエンヤ節』と呼んでおり、貝の採取の時に漁師自ら口ずさんでいたという」とあります。
すなわち岡村宮司さんの「貝がら漁の歌詞」というのは「ホーエンヤ節」のことで、現代では賀露神社の大祭の時、化粧をした「ニワカ」と呼ばれる男たちが伝馬船にのって漕ぎまわる時の掛け声「ホーエンヤ、ホーエヤエーエ」を指していると考えても良いのではないでしょうか。

前述のとおり、江戸時代、賀露では貝殻漁が行われていなかったと考えることは自然です。賀露港は、主に海運業で発展した港でした。明治以降陸路が整えられ商港としての機能が衰え、港の住民は漁業へ活路を求めるようになりました。明治45年に山陰線が開通した後は、海運業はほとんど衰退しています。大正13年の板屋貝大発生の際には、県内漁業者が一斉に板屋貝獲りに転換したとのことですので、この時期、賀露の漁師の世界に大きな変革があったのでしょう。賀露の貝殻漁が盛んになった時期は、たぶん大正13年以降だったのではないでしょうか。

現代の歌謡曲のように、ある時期にポッと生まれたものではないと考えるならば、残されている記録のみに頼ってルーツを探索することはよろしくありません。様々な疑問が絡み合ってきましたので、改めて各地に伝わっている貝殻節の曲や歌詞を並べて、検証を試みました。

賀露に伝わる貝殻節として記録されているものに、昭和60年に記録された賀露町の網尾一男さんが伝える貝殻節(賀露誌映像ライブラリー)があります。網尾さんは昭和59年に地元の有志と伝承芸能保存会を結成しました。その趣旨は、「賀露漁民の中に生きていた「舟曳歌」と浜村に伝わる前の「貝殻節」「はねそ踊り」を残すため」とあります。
現在賀露で歌われている貝殻節は、賀露の民謡家浜沢長三郎さんがアレンジした浜沢流貝殻節です。浜沢さんは賀露に伝わる貝殻節に新しく歌詞を加えたり追分を入れたりして、その芸術性を高めました。青谷の保存会が伝えている貝殻節は浜沢流貝殻節を一部修正したものとの記録があり、両者はよく似ています。
泊の貝殻節は「泊貝がら節保存会」が、橋津では「ふるさとの文化を守る会」が記録していますが、それぞれ独特の節回しで賀露や青谷の貝殻節とは大きく異なっています。

各地の貝殻節にほぼ共通している歌詞は「何の因果で貝殻漕ぎなろうた 色は黒うなる身はやせる」、「戻る舟路にゃ櫓櫂が勇む いとし妻子が待つほどに」、「〇〇沖から貝殻が招く 嬶よまま炊け 出にゃならぬ」です。どの歌詞も労作歌としての深い趣がありますが、その他の歌詞は地域により様々で、労作歌にはあまり似合わない歌詞もあります。
例えば、賀露の浜沢流貝殻節には「久松山(ひさまつやま)から沖合見れば あれが賀露かや鳥が島」、浜村の貝殻節には「忘れられよか情もあつい あの娘浜村お湯育ち」、泊の貝殻節には「泊港にゃ二瀬がござる 想い切る瀬と切らぬ瀬と」、橋津の貝殻節には「海は荒海橋津の育ち 男度胸ならひけとらぬ」などがあります。

お囃子も地域により違いが見られます。「ヤサホーエイヤ、ホーエヤエー」という部分はほぼ共通で、これは青谷元唄貝がら節物語に指摘されているように、「貝が沢山取れて、漁師が共に豊に栄えますように」という願いが込められたものに違いないでしょう。加えて、地元で働く漁師たちへのねぎらいや「愛し妻子」のために稼がなければならないという意気込みも感じられます。神社の祭事に起源を持つこのお囃子は、貝殻節が生まれる前から存在していたと考えられます。

歌の間に入る「合いの手」もたいへん面白いです。
網尾一男さんの貝殻節は「それおせ やれおせ」です。前述の賀露神社岡村宮司さんの話の中に「(貝殻節の)間のお囃子にヤーレ巻いたソーレ巻いたとあるから、早くから「カグラサン」を船で使っていたのではと考えられる」とありました。カグラサン(神楽桟)とは人力ウィンチのことで、鯨の引き上げや植樹の移動などに使った道具です。私はこのお囃子が入っている貝殻節を聞いたことがありませんが、「それおせ やれおせ」は、やはりカグラサンを使っていた頃の様子が盛り込まれたものだと思います。

泊、橋津の貝殻節は賀露の貝殻節のような合いの手ではなく、「ハア千乗れ万乗れ ジョレンにゃ貝乗れ」と独特です。更に泊の貝殻節には「ヤッシンコイ ヤッシンコイ※」という合いの手が入っていて、各地で独自に進化してきた様子が伺えます。 
※「ヤッシン」は、重いものを持ち上げたり、引っ張ったりする時に使う掛け声

          
           神楽桟 長井市古代の丘資料館HPより

共通部分があるにもかかわらず各地で違いがみられるのは、浜村の貝殻節と同様に新民謡ブームの影響ではないでしょうか。新民謡とは、「大正期後半(1920年頃)から昭和期にかけて、地方自治体や地方の企業などの依頼によって、その土地の人が気軽に唄ったり踊ったりできて愛郷心を高めるため、またその地区の特徴・観光地・名産品などを全国にPRする目的で制作された歌曲(ウィキペディア)」です。浜村の貝殻節も新民謡というジャンルに入っています。このブームに乗って、各地で独自にアレンジされたものが現在に伝わっていると考える方が良さそうです。

ちなみに賀露の浜沢流貝殻節は昭和30年後期から歌いだしたもの、泊の貝殻節は昭和39年に録音された貝殻節の歌い手米村たつさんの歌を復活したもの、橋津の貝殻節は、年代は不明ですが加藤熊蔵さんの録音テープから起こされたものと記録されています。

ここからは私の推測です。
貝殻節の発祥は新民謡ブーム以前にあります。生まれた年代は、江戸時代後期から大正中期まで幅広く考えなければならないでしょう。貝殻節は労作歌ですので、これをつくった人は漁師と考えるのが筋です。その人は「何の因果で貝殻漕ぎなろうた 色は黒うなる身はやせる」と、たいへん整った趣深い歌詞を残しました。

さて、江戸時代後期の漁師が家業を引き継いだことを、「何の因果で」と改めて疑問に思うでしょうか。例えそれまでは板屋貝漁ではなくて他の漁をしていた漁師だったとしても、「板屋貝漁のおかげで、色が黒くなり身が痩せた」と嘆くでしょうか。地元で生まれ育った漁師がこのような歌詞をつくったということに、どうしても不自然さを覚えるのです。
曲についてもそうです。賀露に伝わる労作歌に「舟曳唄」がありますが、こちらは泥臭くて漁師の力強さが込められています。労作歌は後世にアレンジされたものが多く、元唄は単調な旋律だった例が多々あります。この点貝殻節は、繊細な節回しと言ってよいでしょう。
貝殻節は、漁には縁がなかった人が板屋貝漁師になってからつくった歌ではないでしょうか。そしてその人は、なんらかの芸術の心得があったのではないでしょうか。

ここでもう一度、歴史的背景を考えてみました。
漁業制度の再編成が行われたのは、明治8年以降です。明治9年に達せられた秩禄処分により、それまで士族に与えられていた家禄や維新功労者への賞典禄は廃止され、収入が閉ざされた士族の生活は困窮の一途を辿りました。鳥取県史には「新聞紙上では無銭飲食、詐欺、乞食、子女の身売りや餓死が伝えられた」と記録されています。士族の中には、明治17年以降に北海道へ移住した人達もいます。
私は困窮した士族が漁師になり、慣れない貝殻漁を労作歌にしたのではないかと考えました。そしてこの考察を続ける中、「平成日本紀行 orimasa2001ブログ」の記事を見つけました。

『伝説によると、因幡藩主の家来だった若侍が、土地の娘を身染めて漁師となり、馴れぬ手付きで貝殻漕ぎの船に乗り、櫓を漕ぐ重労働の辛さに「何の因果で・・・」と口走って溜息をついたという話もある』

この伝説の真偽は分かりませんが、士族が漁師となって貝殻節をつくったというストーリーはあり得ることだと思います。
もしこの推測が正しければ、明治以前には貝殻節はなかったことになりますが、明治以前は祭事の掛け声やお囃子(現在の貝殻節の中にあるお囃子)が貝殻漁の際に使われ、「まだ唄として完成はしていないけれどそれを貝殻節と呼んでいた」と考えれば辻褄が合います。鳥取伝統芸能アーカイブスにある「一説によれば賀露の唄は貝殻節と呼ばず、かつては『ホーエンヤ節』と呼んでおり、貝の採取の時に漁師自ら口ずさんでいたという」という記録とも合致します。
貝殻漁の年表に、推測だらけの貝殻節のルーツを赤字で入れてみました。

   

貝殻節が生まれた時代とつくった人のおぼろげな姿を推測することはできました。残るは「どこで」ですが、それは「鳥取」でよいのではないでしょうか。明治に入って貝殻漁が盛んになると、海の上では漁場を巡って争いが起こることもあったようです。しかし陸の上では交流が盛んだったようですので、貝殻節が生まれた港を特定する必要性をあまり感じません。併せて、民謡貝殻節は「鳥取」という地域の文化であり大切な財産だと整理したいと考えます。

文化芸術にはまったく疎いおやじが、貝殻節のルーツを探ることは至難の業です。
私の拙い推測の真偽はさておき、漁師ではなかった人がやむを得ず貝殻漁漁師として働かなければならなかった労苦は想像を絶するものであったことは容易に推測できます。
その時生まれたのが労作歌貝殻節だった、としたら・・・
ただ労苦を嘆くだけでなく、自分を支えてくれる家族への愛を込めたものだった、としたら・・・
更に過去からずっと引き継いでいる漁師の労苦を改めて伝えるための力強いメッセージだった、としたら・・・
貝殻節が愛の唄に聞こえてきます。

YouTubeを検索すると、ジャズ調やフォーク調など様々にアレンジされた貝殻節を楽しむことができます。しかし地元に伝えられている貝殻節が再びアレンジされることはないでしょう。愛を込めた労作歌「貝殻節」が、今後もずっと唄い継がれることを願うばかりです。

           
            イタヤ貝豊漁の様子 賀露神社HPより

【参考資料】
夢千代日記の故郷、湯村温泉から、鳥取県民謡、貝殻節 YouTube
青谷元唄貝がら節物語
貝殻節 唄 網尾一男
貝殻節 唄 浜沢長三郎
貝殻節 橋津 貝殻節元唄
貝殻節 「泊貝がら節」とっとり伝統芸能まつり2019
民謡「貝殻節」 鳥取市公式Webサイト
鳥取伝統芸能アーカイブス
賀露誌 P312
鳥取県史 経済編 P403〜405
ふるさと橋津 P162〜163
「貝がら節祭り」に関する調査報告
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