入試シーズンを迎える頃になると、かってたっぷりと味わった苦しみを思い出す。
しかし、私に大学浪人生活を語らせれば、それはもうたいしたものだったと大自慢ネタだ。
多くの大学浪人生がそうであるように、大学受験という人生の一つの難関は、なんやら意味のなさそうな自信を身につけてくれるのかもしれない。
私の通った予備校には、多くの強者がいた。「今日は蒸し暑いから彼女と冷房の効いたホテルで勉強する」とか、「徹夜麻雀で大儲けしたからこれから昼酒を飲んで一寝入りする」とか。当然のことながら、彼らは二度目、三度目の試練の年を迎える。
いつも教室の真ん前で講義を受けていたある浪人生は、自分が既に習得した講義の際には、堂々と違う科目の参考書を広げているので有名であった。ある日彼の姿が教室に見えず、先生が「彼はどうしたの?」と尋ねると、「昨日から奥さんと子どもが風邪を引いて寝込んでいるから、看病をしなくてはならないそうです。」との返事。先生も「それは大変だ」と相づちを打っていたが、世間を何も知らない私にとっては大切な人生経験だったように覚えている。
苦労して入った大学も、それなりに単位をとってしまえばなんとか卒業できた。しかもおやじたちの頃は、日本の経済競争力は世界のトップクラス。多少の経済変動の波はあっても、職に得ることにさほど不安は無かった。親も子も安定した生活を求めて大企業への就職を望み、特段高望みをしなければがむしゃらに勉強をしなくても目標に到達することができた時代である。もちろん大学生活の多くの時間をアルバイトとサークル活動と遊びに費やしてしまった私も、学生生活を後悔することもなく、それなりの仕事を得ることができた。
今や日本の経済競争力は低下するばかり。大企業の安定雇用神話も崩れ去り、護送船団方式で誰もがなんとかなるという社会はすでに無くなった。就職しようにも、本当に職が見つからない時代なのだ。一方で中国、東南アジアの経済発展はすさまじく、豊富で高質な労働力と世界から集まる頭脳集団に日本経済はことごとく粉砕される危機にある。
アメリカにおいても、今の日本と同じ苦しみの歴史を持っていると聞いた。大学で学ぶ学問の中に、社会を見抜く力の養成や実務能力の向上を目指した講義が取り入れられた。自分で生きていくために本当に必要な学問が勉強できる大学を目指したのである。学生たちは自分の力で会社を起こすことを考え、社会もこれをバックアップする体制を築いてきた。今日の日本社会も、与えられた仕事をこなすだけの人間はもう求めていない。広範囲な視野、多角的な視点、豊富な発想力をもつ人材が求めてられている。
先日、小・中・高校の先生方とお話する機会を頂いた。
保護者集団との意見交換の場であったためか、言葉を選びながらの会話であったにせよ、どの先生もいささかお疲れのように見受けられた。「ゆとりの中で生きる力を育成する」とか「一人一人の能力・適性に応じた教育を」などと叫ばれる中、子どもたちを取り巻く多くの問題に頭を悩ませ、また教育を憂う人々の叱咤激励を正面から受けながら仕事を続けられているのであろう。
おやじは、ついついつぶやいてしまう。
若い先生、遅くまで職員室に残らないで、早く帰ろうよ。
おかあさん先生、休みの日まで地区に出向かなくていいよ。子どもさんと遊ぼうよ。
年配の先生、生活指導よりも、勉強の楽しさを語ってあげてよ、と。
大学浪人生活を楽しみ、そこそこの勉強でずうずうしく社会に入り込むことができたのは、今の親たちの時代で終わっており、これからの子どもたちは本当に勉強しなくてはならなくなった。社会から受けるダメージを跳ね返し、図々しく生きていく力強さが必要なのだ。このことは本来、親が子どもを育てる中で子どもに教え育んでいくべき能力である。決して今の親が悪いという話ではない。親がきちんと立ち向かう術を教えたとしても、これだけ社会が変化すれば、その術も時として無力になってしまうのだから。
学校の役割と家庭・地域の役割がきちんと区分され、それぞれがなすべき責任をしっかりと果たすことができれば、きちんと子どもたちを育てることができるはずである。もっと話をさかのぼれば、ホモサピエンスという動物の本能に従ってそれぞれの子育て理論を堂々と語ることができれば、少々の社会変化などという現象に子育ての本質を見失うこともない。
しかし、現実は学校も親もとまどいの中で子育てを模索しており、自分の信念を述べることも忘れてしまったのではないだろうか。
先生方の疲れた顔をみながら、「口うるさい世間ばかりに耳を傾けず、子ども達と正面から向き合いながら、先生の教育理念を貫いてください。」と心の中で応援するのであるが、「おまえもだよ。」という先生の返答が聞こえてきそうで、思わず口をふさいでしまった。
いずれにしても、学校の先生方! これからが本領発揮です。
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