跳んでけ!弁慶丸

<2004年7月>


脱サラ船酔い漁師/河西信明奮戦記

 平成14年、大阪でのサラリーマン生活に別れを告げて、家族と共に賀露に根を下ろしたおやじがいる。2年間の漁師見習いの後、この春念願のマイ漁船を手に入れた。長年賀露に住んでいながら漁師の仕事についてはまったく無知な私は「こりゃいい機会だ」と考え、偉そうに地元住人面をしながら、「お手伝いをしましょう」と名乗り出たのであるが・・・。

 以下、新米漁師として愛船「弁慶丸」を操縦し、愛妻に操縦されながら奮闘しているおやじの仕事を紹介する。 

 漁師は男一匹の孤独な仕事・・・と思いきや、夫婦や家族共同の作業で成り立っている仕事であることを始めて知った。まずは、これにびっくり。
 鮮魚を取り扱うため、短時間ですばやく仕事をこなさなければならない。夫婦の息をきちんとあわせなければならない作業である。もちろん弁慶丸おやじと弁慶丸おかみは、抜群のコンビネーションで仕事をこなしていくのであるが、実はこれは後で知った話。
 そんな事情はつゆ知らず、あれやこれやの質問責めと「じゃまてご(邪魔なお手伝いのこと)」を黙って受け入れていただき、本当に申し訳ありませんでした。(まずはお詫びから)

 朝5時、船が港に着く前に弁慶丸おかみは氷、仕分け用の箱、秤などの魚仕分けグッズを準備する。
 発泡スチロールの箱に氷を詰め、丁寧に押し固める。氷は多くても少なくても駄目。さっそく弁慶おかみより作業手順を伝授されるのであるが、根っからいい加減な性格の私にとっては多いも少ないもありゃしない。一山いくらの感覚で「えいやっ」とスコップですくった氷が地面にバラバラ。「氷とてお金。拾って入れるのも非衛生的でしょ」とのご指導を受け・・・とほほ。

 船が着くと、弁慶丸おやじの顔色が気になる。
 「大漁?どんな魚が採れた?」の問いかけに、弁慶丸おやじはいつもニコッと応えるだけ。後で友人の漁師に聞いたのだが、「漁師はよーけ(多く)採れたちゃあなん(採れたなんて)言わあへん(言わない)もんだ。いつも採れなんだ(採れなかった)と言うもんだ。」ということらしい。
 とにかく皆さんが無口で作業を進めている。「漁場ってもっとにぎやかイメージじゃないの?」と不思議に思っていたのだが、漁が少なかった漁師に気を使うのが慣習になっているのだな、と気付いたのはずいぶん後のことだった。

 荷揚げ作業は、まず活き魚から。
 ぴちぴち跳ねる魚には、水族館や料亭のイケスの魚とは全く異なる食欲感を抱く。活き魚はいい値が付くそうであるが、セリまでに死んでしまえばその他大勢と一緒で値は半分以下。死活問題とはまさにこのことだ。
 それじゃあ、獲った魚をみんな活かす方法を考えれば・・と口出しをするのであるが、しょせん素人の浅知恵。船の上での活き魚の確保は、そう簡単にはいかないらしい。漁師の苦労と知恵は外からは見ることができないことを、懇切丁寧に教わった。

 活き魚の次は、あんこう、かすべ(エイ)、かわはぎ、イカ、鯛と、数が少ない魚を分けていく。もちろん魚の大きさを揃えながら仕分ける訳だが、これがまた皆同じような大きさに見えてしまう。
 「そんなに神経質にならなくても・・・。」と無神経な私の軽口に、弁慶丸おやじとおかみの冷たい視線が飛ぶ。「いい加減に分けても、セリでちゃんと見破られて値段をたたかれます。」というわけで、慎重な仕分け作業を横からじっと眺める仕事を仰せつかった。

 一箱に詰める重量には規定があるが、同じ種類の魚の数が揃わない時は別の種類の魚を入れてもよい。ここにもテクニックがあり、なるべくいい値がつくように組み合わせを考えなければならない。もちろん素人は口出し無用。「こいつは旨いから高いぞ」だけでは駄目で、今市場でどのくらいの値が付いているかのという予備知識を持った上での仕分け作業である。

 仕分けの後は重量を図り、氷を入れた発砲スチロール箱に魚を並べた後、すばやくセリ市場へ持っていって箱を並べる。箱ごとに仲買さんが競り落とすので、もちろん見栄えも重要。大きな魚の下に小さな魚を入れてごまかそうという私の安易な発想は、当然禁じ手である。

 仕分けのメインはカレイだ。高級メイタカレイから始まり、エテカレイに終わるまで黙々と作業は続く。メイタカレイは高級魚であるが、「スレ」といって体にこすれた傷のある魚はちゃんと申告しなければならない。スレの見方を何回も弁慶丸おやじに教えてもらうのであるが、素人の私には模様と区別をすることができない。「少々のスレなんて、気にしなくてもいいじゃないの?」という私の疑問は、未だ解消されていない。というのも、この魚は本当においしい魚であり、特にムニエルは格別に最高である。大きなスレであれば魚の傷みも早く、仕方がないと納得するが、こんなおいしい魚を小さなスレだけで安くするなんて・・・と。

 ついでの話だが、野菜や果物の傷物も商品にならないといって店頭に並ばないことがあるそうだ。傷のある野菜や果物も早く傷むことが理由だと聞いたが、少々のキズがあっても新鮮な野菜の味は変わらない。所詮見栄えなのかと、大いに疑問を持つ。ここでは関係ない話なのであるが。

 更についでのまったく関係ない話を続けると、かすべ(エイ)の塩焼きも最高だ。私は、今までエイは醤油で煮たものしか食べたことがなかった。弁慶丸おかみ語録に、「鳥取の人はおいしい魚が手に入るのにおいしい料理方法を知らない。」というのがあるが、ほんとうにそうだと実感した一品である。

 この夏の主要な魚種はカレイであった。とはいってもいつも多く採れるものではないらしい。
 ひどい時には船の燃料代も出ないとのこと。漁師は、確かに割のいい商売ではなさそうである。シケが続けば船は出せないし、船が出なければ収入もない。「この夏は特にひどいぞ」と年配のあばさん(おばちゃん)のため息に、港の本当の苦労を知った。

 船が着いてから1〜2時間程度であわただしい時間が終わり、その後市場でセリが始まる。弁慶丸おかみは市場へ行き、いくらでセリ落ちたのかを確認する。弁慶丸おやじは船内の片づけやら網の修理といった雑仕事。それが終わってやっと帰宅である。少々の仮眠をとって午後1〜2時にはまた出発。そして朝5時半の帰港まで船上での仕事。そんな繰り返しの日々である。

 漁師の仕事のほんの一部を見せていただいたのだが、本当に厳しい職業だ。しかし今、漁師を希望する若者は決して少なくないそうである。大自然と向かい合いながら自分の力で糧を得るわけであるから、やはり魅力はあるのだ。

 一方、彼らを取り巻く経済システムには、様々な課題が潜んでいるらしい。
 彼らは商人ではない。商人が作り上げたシステムをそのまま受け入れなければならないが、漁師にとって決して満足できるシステムではなく、時にはセリに出さずに海に捨てた方がよいと思うこともあるそうだ。既存のシステムから独立し、自分で販売経路をつくってしまう漁師もいるとの話も聞いたが、このような行動をとるためには周囲の理解と多くの協力者が必要である。そもそも漁師の仕事は、家族単位で成立してきた仕事であり、更には地域の慣習とも深い繋がりを持っている。この仕事のスタイルを変えることは、そう簡単にはできないのであろう。漁師を目指しながらも途中で辞めざるをえなくなった若者達の背景が、なんとなく理解できるような気がした。
 今、そして将来にわたり漁師が漁師であるためには、・・・。漁師が地域をつくり地域の顔であり続けるためには、・・・。そんな問い掛けが頭にこびりついた短い夏の体験であった。

 賀露おやじの会は、賀露の漁師を応援します。
弁慶丸に続く若者たちも応援します。とはいっても何もできませんが、気持ちだけは前向きのおやじたちでありたいと思っています。
 がんばれ弁慶丸! 跳んでけ! 弁慶丸



つぶやいた日 2004.11.18
賀露おやじの会HP掲載 一部修正加筆

<目次へ>