おやじと地引き網

〜地引き網復活プロジェクト〜

<2006年8月>


イラスト ののはら りこ

 賀露の「地引き網」を復活させます。
 白砂青松の砂浜で、人々が総出で網を引く風景は、子どもたちに伝えなければならない漁村賀露の大切な伝統文化です。

 地引き網は、昔から伝わる「生活の糧」を得るための「術」でした。多くの村人が集まり、唄を歌い、大きなかけ声で重労働の辛さを紛らわしながら綱を引っ張っていました。
 時が移り、砂浜の景色も変わり、この術を知る漁師たちは少なくなりました。糧に足りる魚も採れなくなってしまったのです。

 今私たちは、この術をもう一度思い出そうと考えました。イベントや観光行事ではなく、生活のための仕事としてこの地引き網を残したいと考えています。魚はほとんど獲れませんが、自然の大切さを思い出し、自然を守り育てるための行動を起こすことができれば、いつかきっと復活する日が来ると信じています。

 賀露の地引き網の風景を忘れないために、地引き網という生活の術が忘れ去られることのないように、そしてすばらしい賀露の歴史を子どもたちへ引き継ぐために、多くの人に参加を呼び掛けます。

明治30年頃の賀露港 賀露誌(賀露町自治会発行)より
 
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 間近にサミット(第4回全国おやじサミットinとっとり 2006.9.2)の開催を控え、そろそろ本気を出して準備をしなければ間に合わなくなるという時期、おやじたちは地引き網に興じていた。賀露港での地引き網、賀露の砂浜で網を引く風景の再現は、おやじたちの懸案事項でもあった。

 6年前(2000.7.15)、賀露小学校保護者団体の協力を得て子どもたちと一緒に地引き網を引いた。「親子で遊びながら、地域から地球を考えよう」という趣旨のイベントである。
 なぜ「地引き網」と「地球環境問題」が繋がるのかは、気持ちの問題として整理。「自然の恵みは大切です。地域の自然を、そして地球の環境も大切にしなければいけません。さあ自然の恵みとすばらしさを体感しましょう。」などとよくわからないキャッチフレーズを掲げ、自然観察会「賀露海岸の生物の観察しよう」、体験学習会「太陽エネルギーで塩を製造」、自然科学実験教室「太陽熱を利用した科学実験教室」といったイベントメニューを並べて自然のすばらしさを語るための体裁を整えたのだが、要は、おやじたちはとにかく地引き網を引きたかったのである。

 6年前に使った地引網は、漁師が生活の糧を得るための「とにかくでかい地引き網」であった。観光用の網とはまったくスケールが違う。網を引く時間も2時間はかかったと記憶している。だからこそ様々な魚の姿を見ることができた。鯛、白イカ、スルメイカ、カレイにヒラメ、フグにタコ。サメまでも入っていた。この時の感動は本当にすさまじかった。おやじたちは、「この感動は、絶対後世に引き継ぐべきだ」などと、漁師の苦労も知らず勝手な想いを膨らませていたのだ。

 そしてこれを最後に、賀露から地引き網の風景が消えてしまった。
 やがて港湾整備により港の姿も変わり、地引き網を引いていた砂浜も姿が消え、沖には消波ブロックが沈められた。もはや網を入れるどころの話ではなくなった。
 「賀露でなくても近くの浜辺でもいい。」
 「昔は千代川の河口で網を引いていたそうだ。」
 「よし、鳥取砂丘でやろう。」と話だけは進む。
 そんな時、追い討ちをかけるように入った情報は、漁師が地引き網を手放してしまったというものであった。地引き網が、イノシシ被害防止のための防護網にリサイクルされたのだ。
 「じゃあ、観光地引き網にしようか。」
 「観光地引き網は賀露でなくてもいいだろう・・・。」
 おやじたちの気力は、ほとんど失せてしまったのである。



 すっかり諦めがついた頃、倉庫に網が残っているという知らせが入った。
 後で聞いた話であるが、17〜18年前に地元の漁師がつくった網が残っていたらしい。
 おやじたちの目が輝いた。
 「よし、やろう。」
 早速、地引き網漁を知っている漁師との交渉が始まった。ところが、ここでまた大きな障害が発生した。賀露の漁師たちは、既に漁業権を失っていたのである。

 地引き網漁は、いわゆる帆船時代には沿岸漁村の重要な漁業として栄えてきた。大正初期に動力漁船が出現し、特に戦後の機船巾着網漁業など沖合での漁が盛んになるにつれ徐々に衰退し、今ではほとんどが観光を目的としたものとなっている。
 地引き網を使った漁を行うためには、知事の許可が必要である。知事の許可が必要となったのは昭和49年5月以降であるが、その頃賀露では3名の漁師に許可が降りていた。その後昭和61年までに許可を得た漁師は6名まで増えたが、平成7年以降徐々に許可が失効し、平成16年に2名の許可が失効した時点で、賀露で許可を持つ漁師はいなくなった。

 地引き網漁は漁師の暇つぶしではない。生活の糧を得る手法である。
 しかし沿岸での漁獲量が少なくなり、漁船や漁業具の発達で近海漁業に推移してしまった今、地引き網漁は歴史となってしまった。この歴史を大切に保存し、新しい文化とすることこそがおやじの願いである。文化が興れば、地域に新しい活力を引き込むことができる。そんな地引き網の魅力を、おやじたちは簡単に諦めるわけがない。地引き網を引いても魚が獲れる訳ではないし、船を動かし、漁師を休ませ、人手を集めれば相当の出費が必要となる。だが、おやじたちは実行を決断した。

 地引き網漁漁業権の再取得について漁師を口説き始めた。地引き網漁漁業権は、漁師でなければ取得できないからである。更に、「遊び」ではなく「生活のための地引き網でなければ許可が下りない」という何故か納得させられるシステムである。漁師との話は数回を数えた。そして、許可を再取得する了解を得た。
 以下は、漁師が語る地引き網への想いである。
 
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 私は、漁師として、長年賀露港で地引き網をしておりました。
 しかし、地引き網による漁獲高が減少しましたこと、また私自身も高齢となったことから、漁業権の有効期限が切れたにもかかわらず、更新の手続きをせぬまま今日に至ったものであります。
 本来漁業権は、漁師が生活の糧を得るために権利をいただくものと伺っております。しかし、賀露港においては、近年の不漁や原油高の影響から、もう地引き網漁をもって生活の手段とすることは困難と言わざるを得ません。
 賀露港は、元来漁村です。豊かな自然の中で、昔より漁師が魚を採って生活を続けてきた場所です。環境や時代の変化についていくことができなくても、私たちは漁村としての鳥取港が好きであり、漁師としての誇りを持つものであります。
 また、地引き網漁の風景は、漁村賀露を語る最も象徴的な姿だと思っております。この地引き網漁を復活し、賀露港を皆に知っていただき、子どもたちに楽しんでいただくことは歴史を引き継ぐという意味からもたいへん重要だと思います。
 漁業権は、「生活の糧」を得なければ頂けないということは十分承知しております。しかし見方を変えれば、地引き網漁を復活し賀露の鮮魚を知っていただくこと、また地引き網漁を通して、賀露に足を運んでいただく人が増えることにより「かろいち」等での魚の売り上げ増や魚消費量の増に繋がるといった、違った意味で「生活の糧」となることも考えられます。
 現在考えておりますのはイベント要素が強いものですが、地引き網漁の復活は漁業振興に必ず役立つものと思います。
 以上のことから、下記のとおり地元団体と連携し、地引き網漁を復活させたいと考えておりますので、是非、再度漁業権をいただきますよう、また地域をあげて漁業振興に取り組んでいただきますよう、お願い申しあげます。(下記 略)
 
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 漁業権取得の申請は、地元漁業協同組合の了解を得た後、県庁で審査されて許可が出る。はたしてどの部分の想いが伝わったのか解らないが、とにかく許可をいただくことができた。幸い地域づくりを目的とした地元のNPOとの連携が可能となり、イベントが幕を開けたのである。
 倉庫からの網出し、網の点検、船への搬入とスケジュールが決められる。すべてちゃんとした手順がある。漁師の指導でおやじたちは黙々と動き、その様子がビデオに収められた。たぶん、そのうち誰も知らなくなるという不安感からの記録であった。

     

 地引き網は、まん中にある「袋網(ふくろあみ)」とその両側にある「そで網」とで出来ている。「そで網」が魚を取り囲み、「袋網」に魚を溜めるのである。賀露では「そで網」のことを「そで」とか「やふし(八節)」と呼び、「袋網」のことを「もじ」とか「きびら網」と呼んでいた。今回使った地引き網には、「そで網」から「もじ網」へ移行する部分に「つつ」と呼ばれる網が付いていた。確かに、「もじ」へ魚を追い込む「筒」の形をした網である。

 「そで網」の長さは「袋網」中心に、左右に50mずつ延びている。「袋網」の方が「そで網」よりも網目が細かくなっている。当然といえば当然であるが、すべて漁師の手編みで出来ていた。網の上端には「浮き」を、下端には「おもり」を付け、海中に網の壁をつくって魚を逃さない構造である。おもりは陶器でできていた。砂を這う網との相性は金属では得られないとのことであるが、網の手入れの最中にやたらと割ってしまうのが難点である。地引き網は海底に沿って引き上げるものなので、岩やくぼみ、急に深くなっているところがあると上手く魚を囲むことができない。この「おもり」もそんなトラブルを和らげるための漁師の知恵なのであろう。

 網を引っ張るロープを「引き綱」と呼ぶ。地元では「平綱(ひらづな)」とも呼んでいる。おもしろいのはロープの長さの呼び方である。1本のロープの長さは200m、これを「ひとまる(1まる)」という。その半分の100mを「はんまる(半まる)」、さらにその半分の50mを「二分五厘」という。今回はこの「二分五厘」を使った。

     

 ロープの中に1本だけ、長さ約50cm、幅約10cmの白く塗られた板を2m程度の間隔で取り付けたものがある。この板のことを「ぶり板(ぶりいた)」といい、「ぶり板」をつけたロープを「ぶり綱(ぶりづな)」という。「ぶり板」の白色は、サメの腹に似せたものだ。「ぶり板」をサメと間違えた魚たちは網の中心へと追い込まれるのである。
 「ぶり板」は、真鯛には効くがチヌには効果がない。真鯛は逃げるとき上方へ行く習性があり、チヌは底にもぐる習性があるからだ。地引き網ではチヌを捕るのは難しいらしい。

 サメについての一話。
 地元ではサメのことを「ワニ」という。昔、賀露の子どもたちは背中にコバンザメをくっつけて遊んでいたというが、サメはやはり漁師たちの強敵であったらしい。今でも賀露の沖にはちゃんとサメが棲息している。
 海水浴場にサメが出現して大騒ぎになるのは映画だけの話ではないが、本当はあたりまえの自然の風景である。しかし、大きなサメがウロウロすることはなかったようである。海水浴シーズンには自治体によりサメの警戒が行われているが、「昔は地引き網をしていたから海岸にサメが寄ってこなかったかもしれんなぁ」とは漁師の分析である。

 「ぶり板」は「網の一つだ」と漁師は言う。15〜20隻の船を出して地引き網を行っていた頃は、まず「ぶり綱」で魚を囲い、その中へ網を入れていたそうだ。魚が捕れすぎて浜には揚げることができなくなると「袋網」を沖まで引っ張って行き、船の魚槽に魚を入れたそうである。重くて船が沈みそうになり他の船に応援を頼んだというのは、自然が豊富だった頃のうらやましい話である。

 「袋網」を中心に左右に「そで網」を広げ、その端に「ぶり綱」を付ける。「ぶり綱」の端から二分五厘のロープを3本つけて地引き網の全体が完成する。ロープは浜側から順番に1ばん綱、2ばん綱・・と呼び、4ばん綱が「ぶり綱」である。

 「そで網」の端には、鉄チェーンでできた「かせ」というおもりをつける。漁師は、このおもりである「かせ」を「チン」と呼ぶのであるが、漁師の言葉は独特でおもしろい。
 例えば「フック」のことを「ハッカ」、船を前進させることを「ゴーヘー」、止めることを「ゴッサン」という。「ゴーヘー」は「go ahead」、「ゴッサン」は「go stop」から来たという。「チン」は「チェーン」からだと思われる。大阪から賀露へ住居を移し漁師となった友人は、修行中、独特の賀露弁と訳のわからない漁師の専門用語にずいぶんと悩まされたそうである。漁師師匠にとっても長年使い慣れた言葉なのでちゃんと教えることができない。その苛立ちからの怒鳴り声(地元では「もがり声」という。)を何度も聞いたという。

 このような漁師たちの世界を、単に一つの産業の姿と片づけたくない。特に賀露においては「文化」であり「歴史」である。この文化・歴史を「漁師の学校」として残したい・・・。これもおやじたちのもう一つの夢である。

     

 8月12日午前8時、地引き網を積んだ2隻の漁船が港を出港した。船頭宮根哲夫が操る「久洋丸」と岸根義孝が操る「第二久洋丸」である。
 沖合500mで地引き網を海中に投下。
 漁師宮根が波を見つめる。
 潮の流れを読んでいるのである。
 西から東へ流れる潮を「さかしお」、反対を「みちしお」というが、今日は「さかしお」である。魚影は見えないから、漁師の感だけの作業である。

 戦後は「あご網」がよく行われた。海面を泳ぐあご(トビウオ)を「ぶり板」で囲んで捕まえるのである。「はまち網」も盛んであった。はまちは小魚を追って水面に上がってくる。魚群が水面に上がったものを「はみ」といい、さざ波が立っているように見えることから「はみが見える」とか、鳥が寄ってくるので「とりやまが見える」といって網を入れたそうである。自然の恵みに溢れていた時代の話であり、今の賀露沖にはほとんど見られない。

 網を全て投入し終わると、1ばん綱を浜へ泳いで持って行く。
 スタッフが勢いよく海に飛び込んだ。
 さあ、ここから浜のイベントが始まるのである。

 「白砂青松の砂浜で、村人が総出で網を引く風景は、子どもたちに伝えなければならない漁村賀露の伝統文化です。」

 賀露町内を中心に呼び掛けを始めたのは開催日の4日前、地元新聞へ案内を掲載したのがイベントの前日であった。漁師もスタッフも魚は捕れないと思っているし、お盆前のこの時期に人が集まるはずもない。「まあ50人集まれば御の字だよ」と軽い気持ちではじめた地引き網であったが、浜で参加者を待つスタッフの気持ちは落ち着かない。

 沖から1ばん綱を浜へ運ぶ段になっても、人はなかなか見えない。
 これは、大変なことになったかもしれない。もしかしたら数人で地引き網を引き上げなければならないのか・・・と不安に陥った頃、こちらへぞろぞろ向かってくる集団が眼に入った。
 「なんだ、すごい人じゃないか。」
 うれしくなると同時に、もう一つの不安が過ぎる。
 「お〜いみなさ〜ん、魚は取れませんよ〜、ごめんなさいね〜」と心の中で謝るのである。

     

 「えいや、えいや」の掛け声でロープを引き始めた。
 皆、体は同じ位置で動かさず、腕の力だけで綱を引く。本来は、綱引きの要領で後ろにさがりながら綱を引くのが賀露の地引き網である。腕だけでは疲れるので、腰の力で網を引っ張るための「腰板」という道具があるのだが、皆がその場から動かない。というより砂浜が狭く人が動けないのだ。腰板は使いものにならず、使い方だけの説明に終わった。

 ついでの話であるが、綱引きができないのは砂浜が無くなったからである。さらに砂浜にはセメントのテトラポッドが頭を出している。いろいろ考えることはあるのだが、このことについておやじ達は「無言」を決めている。

 地引き網を引く賀露のかけ声は、「よいやさ、よいやさ」が本当らしい。「よいやさ」は賀露祭りの御輿担ぎのかけ声でもある。賀露には、「賀露神社」と「上小路神社」の二つの神社があり、祭りも同じ日に催されるが、御輿にしても獅子舞にしても少々振る舞いが異なっている。かけ声も「賀露神社」は「よいやさ」であるが、「上小路神社」は「チョイヤサ」である。が、もうそんなかけ声もどうでもいい。集まった約200人の親子連れは皆、揚がってくる魚に期待しながら綱を引いた。

 沖では、西側のロープと東側のロープが均等に引かれるよう旗で合図する。その旗を見ながら、岸では「西側を引いて」、「今度は東側がんばって」とリードをする。両側の引き綱を同じ力、おなじスピードでゆっくり引くことがコツである。
 沖合の船から旗で合図をするのも、実は昔ながらの手法である。最初は携帯電話で連絡を取っていたのであるが、昔を思い出した漁師が旗で合図を始めた。言葉に出すのであれば、「西側を引け」ではなく「西が負けとるぞ」というのだそうである。

 3ばん綱を引く頃には、暑さで座り込む姿が多くなった。
 「あと何分くらい引くの?」との声に、「30分だよ」と答えたとたんに「え〜」のブーイング。しまったと思いつつ、「大丈夫、もうすぐだよ」とのフォローは完全に無視された。

 網を投下したのは沖合500m、水深5.5m。もう少し沖の水深10mになるとたぶんイカが捕れる。6年前の地引き網は今回の網の数倍はあったのであるから、タイやイカなどの姿も期待ができたのであるが、今回はまったく不明。「たぶんほとんど何も捕れない」ということを疑う余地はなかったのであるが、沖で海に飛び込んでいるスタッフの姿を見て、携帯電話で尋ねた。

 「魚はとれとるだか〜?」
 「まあ、ぼちぼちだ。」
 実はこの時、魚が捕れ過ぎて網が破け始めていた。船の漁師とスタッフは、どたばたで捕れた魚の一部を船へ上げていたのである。
 「魚は、結構とれてそうだぞ。がんばれ〜。」
 浜で皆に告げるとロープを引く手に力が一段と込められた。

     

 漁師は寡黙である。
 早朝港へ行き、友人の漁師達との会話は私の楽しみである。
 ある朝、「今朝の漁はどうだった・・・」と聞いて廻ると、友人の漁師が手招きして教えてくれた。
 「漁師は、魚が捕れても捕れたとはいわん。捕れたかどうか聞くもんではない。」

 小型漁船は数隻でまとまって出港するが、沖に出ればそれぞれが単独で行動して漁をする。一隻のみで漁に出ることはまずない。もちろん安全確保のための約束ごとである。もし誰かが遭難したら、漁師たちは網をすべて投げ出して救出に向かう。そんな連携作業でありながら、水揚げ量はそれぞれが全く異なるのである。

 捕れた魚の話をしないことは、捕れなかった漁師への配慮だろう。その配慮も歴史となって、漁師たちは漁獲量については寡黙になってしまったと勝手に解釈している。だから朝の港の水揚げは、思ったより静かに進んでいくのである。こんなところに漁師のやさしさを知ったような気がして、ますます賀露が好きになるのである。

 4ばん綱(ぶり綱)にかかると「ぶり板」で浜の風景が変わってくる。網が近づいていることが分り、それまでへたりこんでいた子どもたちも綱にしがみつきだした。
 魚影が見えたとたん、風景が一変した。
 子どもたちは一斉に波打ち際へ集まる。
 網が揚がり始めると、網目に挟まったキスを捕ろうと子どもたちが群れる。
 その後、アジの魚群が姿をあらわした。
 大きな歓声とともに大人も子どもも「つつ網」に群れ始めた。
 もう静止声が届かない。
 漁師が怒鳴る。「あぶない! さがれ!」

 子どもたちの「アジとり合戦」はすさまじかった。鯛の姿も見えたが、あっという間に袋の中に集められた。当初、捕れた魚は皆で平等に分けようと話をしていたのだが、もう手がつけられない。

 「ええい、勝手にやってくれ。」
 スタッフは、走りまわる子どもたちの監視役となった。子どもたちは、怒鳴り声などお構い無しに手でアジをつかむ。
 「痛い!」という声。
 「アジの背びれは痛いということを知ったか・・・。」
 小さな子どもであるが、泣こうともせず必死にアジを追いかけている。ちゃんと袋を持ってきたおかあさん方は偉い。真剣に袋にアジを投げ入れていた。
 「波に乗せて網を引き上げろ。」
 網がビリビリと破れる音が聞こえた。
 17〜18年も前につくられた網である。この網の修理方法を知っている漁師は少ない。たぶん2・3人であろう。ちなみにこの網をつくった漁師と、沖で船を操っている漁師とは親子であるが、二人ともこの件についても寡黙な漁師である。若い漁師に「頼むから地引き網を編むテクニックを覚えてくれ」と身勝手なお願いをしてしまう。
 後日漁網メーカーに網の補修を問い合わせたのだが、できないとの返事。地引き網もやはり高価な特別注文となった時代である。

     

 ついに、あまりのアジの多さに「もじ網」を浜に引き上げることを断念した。漁師の指導でようやく「もじ網」にタモを入れ、魚を取り出す。
 数十分間のパニックであった。
 みな一生懸命袋にアジを入れている。その後は、一家では食べきれない量を抱えて持って帰る姿でいっぱいであった。満足した参加者の顔に、腰から下が動かなくなっていたスタッフの顔も満足であった。

 漁師も我々も、魚は捕れないと思っていた。1家族1,000円の参加料は、地引網を楽しむお金だと言い訳できる金額としたのである。もちろん皆、想像以上の魚を持って帰ることができた。
 この話は、夕方には村中へ広がったそうである。「船頭はすごいお金をもらったそうだ」などと羨ましがられた。払ってはいないし、そのようなお金も出てくるはずがない。こんな漁がいつでもあればな・・・と、ため息である。漁というのは、このようなものなのであろう。もちろん、今回はたまたまの偶然であることをちゃんと皆に伝えたい。

 アジの料理について、浜で訪ねられた。
 「塩焼き、さしみ、からあげ、天ぷら。なんでも旨いよ。」
 スーパーマーケットでパックに入った魚では、料理のイメージが狭められる。自分で捕まえた魚だと旨さもまた違う。体を使い疲れることで、食材に対する満足感も倍増となる。三枚おろしのパック詰めとは、ひと味違うアジなのである。

 自然と向き合う時、「これが自然の恵みですよ」とか「自然を大切にしよう」といった教訓めいた話はいらない。体で覚えた経験は、想像力を育み、人間のあるべき姿を考えさせる。アジだってうかつに手を出せばヒレが手にささって痛いことを知る。さわった手は魚臭いが、潮風の爽快感に臭いを忘れてしまう。生き物の強さや自然の臭いを学び、やさしい心や感謝の気持ちを育てる。人間の手で作られた環境は、人間が欲するものを造るわけであるから、与えられる者はあれこれ考える必要はない。だから想像力も感謝の気持ちも養われない。豊かと言われる現代社会は、子どもたちにとっては貧しい心を育てる社会ともいえるのではなかろうか。

 8時20分から9時10分まで、約50分の地引き網体験であった。
 捕れたアジは約2トン。45家族約160人とスタッフ含めて総勢200人が自然の恵みを受けた。1家族の参加料は1,000円。一網を動かすのに約30万円の経費がかかったのだが、その経費を回収することは到底できない。いつか「生活の糧を得る術」として必ず復活をさせることを誓うおやじたちであった。

     

(追記)
 浜からアジと人の姿がまばらとなる頃、ようやく重い腰をあげ片づけに入った。
 強烈な満足感のため、疲れを苦と感じることはなかった。履いていたスリッパがボロボロにやぶれてしまったこと、汗でパンツがゴワゴワになりお尻がひりひりすること、これから襲ってくるであろう筋肉痛の予感、すべてが心地よかった。
 地引き網の後、漁師たちは一杯酒を飲むのが慣習と聞いていたが、この日は午後から出港である。酒を交わしながらゆっくり余韻を楽しみたかったが、後日にお預けとなった。
 一息ついた後、3週間後に開催される全国おやじサミットの準備が頭をよぎった。そして、予想どおり激しい筋肉痛の中、泣きそうになりながらのサミット準備も体験したのである。


 
                   つぶやいた日 2009.9.24
賀露おやじの会HP掲載 一部修正加筆

 その後のおやじと地引き網

 大成功裏で終わった地引き網であったが、この後の後始末もたいへんであった。後日、地元の関係機関に多大なご迷惑をおかけしていたことがわかり、おやじたちは神妙な顔で謝りに回ったのだが、その話は割愛する。しかし、地引き網完全復活の手応えは、確かに感じていた。

 翌年、再度地引き網を実施。だが、潮で流された網が海底の岩場にひっかかり、みるも無惨に破けてしまった。水揚げ量ゼロ。

 翌翌年、おやじの小遣いをはたいて、地元の年寄り漁師に網の補修を依頼。再度挑戦するも、またまた網を岩にひっかけてしまった。網を引き上げる途中では、かなりの魚影を確認することができたのであるが、結局、水揚げ量ゼロ。

 おやじの野望は、無謀であることが証明され、以後、地引き網復活プロジェクトはお預けとなっている。
 
つぶやいた日 2010.5.10

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