とりあえずのあとがき

イラスト ののはら りこ

 「あとがき」というのは文章や著述の最後に添えるものであるが、この「おやじのつぶやき」がいつ終わりになるのか自分でもわからない。たぶん、もうやめよう、もうおしまいにしようと思いながら、だらだらと書き足していくに違いない。
 そうなると「あとがき」は、いつまでたっても書くことができない。そうかといってこのホームページを読み物風に仕上げた以上、「あとがき」がないままに置いておくのも見映えに欠ける。

 居酒屋で一とおり料理を注文した後に「とりあえず」の一言を付けておくと、なぜか安心する。「後からゆっくりとおいしいものを注文するよ」という意気込みを感じてもらえそうだし、例えその後注文をしなくても、「とりあえず」だったからと言い訳ができそうな気がするお気楽な一言だ。
ということで、「とりあえずのあとがき」をつけておくこととしよう。

つぶやいた日 2011.8.29

 
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とりあえずのあとがき

 そもそもおやじ世代とは、どの年代を指すのだろう。
 私のおやじのイメージは、クレージーキャッツの植木等さんやドリフターズの加藤茶さんだ。どちらもステテコ腹巻姿にチョビ髭がトレードマークであった。私がこの姿をおやじのイメージとしてずっと引きずっていることを考えると、進歩がないといえばそれまでだが、かなり強烈な印象を植え付けられたということだ。その姿は単なる笑いだけではなく、存在感もあったし、時として威厳さえも感じたように覚えている。

 団塊の世代がぞろぞろと定年退職となり、私の年代がその後を追っているのであるが、幼いころの私のおやじイメージが退職前や退職後のおやじたちであったとは考えられない。働き盛りで、仕事が終われば酒を飲み、子どもたちが遊んでいる場所に何処からともなく現われ、頭を小突き、声をかけて去って行ったような気がする。
 ステテコも腹巻も着けない小奇麗なおやじばかりになってしまった現代ではあるが、おやじ世代とは、確かに子育て世代のお父さんたちなのだ。

 子育て世代のお父さんは、今の社会をしっかりと動かしている。もちろん世の中が自分の思うように動くわけではない。不満を抱えたままずるずると年をとり、子どもたちから「こんな世の中にしたのはあなたたちだろう」と言われてしまうのは口惜しい。
 そうかといって「俺は違う」と言っても、しょせんおやじの遠吠えに過ぎない。
 単なる遠吠えだけならまだしも、勘違いと責任のすり替えを交えての遠吠えになってしまっては言い訳をするのもやっかいだ。どうせなら遠吠えもしないで、勘違いやすり替えもまとめて笑いとばし、一人隅っこで照れ笑いでもしてみようか。

 踊りながら吐き散らす「おやじのつぶやき」は、こんなバカげた動機で駄文を集めた。
 残念なことに、私は既に大事な子育て期を終え、じじいに近づき始めた年代になってからのつぶやきになってしまった。
 しかし、「おじじのつぶやき」へ改題する気はない。
 体が動かなくなっても、ぼけ老人と呼ばれるようになったとしても、いつまでもおやじとして独り言をつぶやき、一人で照れ笑いをしていたいと思っている。

 このつぶやきにたくさんのイラストを添えてくれたののはらりこ嬢は、おやじたちのわがままな行動にいつも笑いながらつき合ってくれる美人の娘さんである。
 彼女とはじめて会ったのは、彼女がまだ鳥取環境大学の学生の時だ。当時から、おやじは彼女が描くほんわかとした絵がお気に入りであった。この度も、つまらない話題やしょうもないおやじギャグをやさしくカバーしてくれる強い味方となってくれた。感謝、感謝である。

 そして、つぶやきネタに使わせていただいた多くの心やさしいおやじ仲間にも、改めて感謝を申し上げます。

つぶやいた日 2011.5.10

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