科学って楽しいの?


 和くんと紫イモ

 小学三年生の和(かず)くんは、農家の一人っ子です。お父さんとお母さんは、朝早くから畑でお仕事をしています。毎日がとても忙しい家族ですので、和くんがお父さんやお母さんと遊ぶ時間は、あまりありません。それどころか、学校が休みの日には、お父さんからお手伝いを頼まれます。頼まれたら仕方がありませんからしぶしぶとお手伝いをするのですが、そのうち和くんは、畑からこっそりと抜け出してしまいます。というのも、和くんはスポーツが得意で、近所の彩(あや)ちゃんと一緒にサッカーやキャッチボールをするのが楽しみでした。
 和くんは、彩ちゃんが大好きです。彩ちゃんはやんちゃな和くんにやさしくて、和くんが困っている時や落ちこんだ時は、いつも励ましてくれます。それだけではありません。彩ちゃんもスポーツが得意でしたので、二人はとても気が合いました。ただ和くんと少し違うところは、彩ちゃんはスポーツだけでなく勉強も得意で、理科と算数は学年で一番の成績でした。和くんはというと、勉強はあまり好きではありません。彩ちゃんと違って、理科と算数が大の苦手でした。特に理科はまったく興味を持つことができなくて、いつもテストの結果がよくありません。この前のテストの結果もさんざんな点数で、先生に職員室に呼ばれて、もっと頑張るように注意を受けました。
 テストが返ってきた日は、家に帰ってからもたいへんです。お母さんにテストの結果を報告しなければなりません。いつもはあまり小言を言うお母さんではありませんが、和くんが職員室に呼ばれた日は、さすがに真剣になってお説教をしました。隣でお父さんも、しょんぼりしている和くんを見ながら心配しています。お母さんは、和くんのテストの結果を叱っていたのではありません。和くんの飽きっぽくて直ぐにあきらめてしまう性格を、なんとか直して欲しかったのです。
 和くんは、理科の教科書を開いても直ぐに閉じてしまいます。なにしろ、理科と聞いただけで頭が痛くなるのですから。植物の育て方やおしべめしべのつくりなどには、まったく興味を持つことができません。植物は畑の手伝いの時、いつも見ています。お父さんとお母さんがとった野菜を軽トラックに運ぶのが和くんの仕事ですので、真剣に野菜を観察するようなことはありません。それに、野菜や果物は自然にできるのだから、そんなことを覚えても何の役にも立たないと思っていました。

 苦手なものは、植物だけではありません。チョウやトンボは、どちらかというと嫌いです。虫めがねで観察すると、気持ちが悪くなってしまいそうです。乾電池や豆電球のことはさっぱりわかりません。電池を使って動くおもちゃは大好きですが、その仕組みまで知りたいとは思わないからです。お天気や雲、気温の観察はできますが、それこそ直ぐに飽きてしまいます。
「すぐに投げ出さないで、時間をかけてひとつひとつ丁寧に理解をすれば、理科がおもしろくなるし、成績もよくなるのにねぇ」
 お母さんは、口ぐせのように何度も繰り返してお説教をします。
『だって本当におもしろくないんだもん。本当におもしろかったら、きっと飽きないよ』
 和くんはお母さんにそういおうと思いましたが、なかなか口に出すことができません。隣でお父さんが、考え込んでいました。
「おかしいなあ。お父さんもお母さんも理科は大好きなのに、どうして和は苦手なのかなあ」
「ぼく、本当にお父さんとお母さんの子どもなの?」
「何いってんの。あたりまえじゃない!」
 お母さんが和くんの頭をパチンとたたきました。和くんは口をとがらせてお母さんをにらんでいます。お父さんは、そんな和くんを見て笑っています。
「よし、おもしろいことを教えてあげよう」
 お父さんは和くんの前に座って、真剣な顔で話をはじめました。
「お父さんの畑に、さくらんぼの木があるだろう。和はさくらんぼが大好きだね」
「まあね。さくらんぼは、好きだけれどね」
「さくらんぼの花はさくらのような花だから、きれいだろう」
「うん、まあね」
「花が咲いて、その後葉っぱが出てきて、そして実がなるよね。どこに実がつくか知っているか?」
「花の咲いたところ」
「では、どうして、花の咲いたところに実がなるのでしょうか?」
「花におしべとめしべがあるから」
「なあんだ、よく知っているじゃあないか。それじゃあ、今度は少し難しくなるぞ。おいしいさくらんぼをつくるために、お父さんはどんなことをしているか知っていますか?」
「肥料をあげた。その肥料もお父さんがつくったんだね」
「そうだよ、それが理科の勉強だよ」
「なぜそれが理科なの?」
「おいしいさくらんぼをつくるためには、木の枝や葉っぱをよく観察して、いつ、どんな肥料をあげればよいのか考えないとダメなの。これって理科の勉強と一緒でしょ。なぜおいしくなるのかを考えることが勉強なんだ。お父さんやお母さんの畑仕事は、おもしろい理科の勉強なんだよ」
「そんなのテストに出ないよ」
 和くんは、やっぱりお父さんのいっている意味がよくわかりませんでした。確かに畑にはたくさんの花や木があるし、そのことは理科の教科書にも書いてはあったけれど、畑の仕事と勉強はまったく違うものだと思いました。
お父さんの話は、結局「お父さんは理科が得意だぞ」と自慢しているだけのように聞こえます。ふくれっ面の和くんに、お父さんもそれ以上の話はできませんでした。

 雲一つない真っ青な空に吸い込まれてしまいそうな、晴れた日のことでした。今日は、めずらしくお父さんがお手伝いをしろと言いませんでした。学校が終わったら、和くんは彩ちゃんと一緒にキャッチボールをする約束をしました。待ち合わせの空き地で彩ちゃんを待っていると、空き地の向かいに白い建物が建てられているのに気がつきました。まだ工事中らしく、どんな建物かわかりません。建物には、工事をしている人とは別に、ズボンも服も真っ白の作業着で、大きなマスクをして、頭も全部かくれる帽子をかぶった人が頻繁に出入りしています。
「あの建物、きっと研究所よ」
 和くんの後で、彩ちゃんがつぶやきました。和くんは彩ちゃんが来ていたことに気がつきませんでした。和くんが建物をずっと不思議そうに眺めていたので、彩ちゃんは和くんに声をかけないで一緒に見ていたのです。
「そうかもしれないね。何の研究所だろう」
 和くんは、マンガに出て来る研究所を思い出しました。
「秘密兵器をつくっているのかもしれないなあ」
「えー、うそー」 彩ちゃんは、大きな目をもっと大きくして驚きました。和くんは彩ちゃんの驚く姿を見て、自分の考えがますます本当のように思えてきました。
「爆弾かなあ。でも、あんな白い服を着ているから、化学兵器かもしれない」
「化学兵器って、なあに?」
「知らない。でも、たくさんの人が死んじゃうんだ」
「えー、本当?」
「うん、マンガにかいてあった」 彩ちゃんはあきれた顔をして、和くんに言いました。
「もういいから、キャッチボールをしよう」
 和くんは、キャッチボールをしに来たことを忘れていたようです。彩ちゃんの言葉に思い出したように、持っていた袋の中からボールとグローブを取り出しました。でも、まだあの研究所のことが気になっています。
 なかなか動こうとしない和くんの手に、彩ちゃんがボールを渡しました。そのボールを彩ちゃんに投げて、ようやくキャッチボールがはじまりました。時々青い空に高くボールを投げ上げると、彩ちゃんはボールが落ちてくる場所にうまく体を移動して、きちんとボールを受けます。和くんが速いボールを投げると、彩ちゃんはもっと速いボールを投げ返します。和くんは楽しくて、研究所のことは忘れてしまいました。

 空き地に置いてあるコンクリートの土管の上に二人で並んで座って、一休憩をしました。彩ちゃんが持ってきてくれたお菓子を食べながら、和くんは、また白い建物を眺めています。
「あれ?」 和くんが、首をかしげました。
「あ、お父さんとお母さんだ。今、あの研究所に入った」
「おじちゃんもおばちゃんも研究者かなあ」 彩ちゃんは、お菓子を口いっぱいにほおばったまま和くんに尋ねました。
「違うよ。そんな話は聞いたことがないよ。でも研究者だったらどうしよう。爆弾や化学兵器をつくっていたら、嫌だなあ」 和くんは、建物が本当に秘密兵器をつくる研究所のように思えてきました。
「そんなことないって」
 彩ちゃんは和くんの想像が間違っているというのですが、和くんは本気で心配しています。休憩を終えて再びキャッチボールを始めたのですが、建物に入るお父さんとお母さんの姿を見てからは、集中することができません。彩ちゃんが投げるボールを取りそこねたり、彩ちゃんのグローブをめがけて投げたつもりのボールが、とんでもない方向に飛んでいったりします。結局キャッチボールはやめて、二人は家に帰りました。

 家に帰ると、玄関の前でお父さんとお母さんが笑いながら話をしていました。和くんは不機嫌です。
「お父さんもお母さんも、今日はどこに行ってたの?」
お母さんは、軽トラックから空のコンテナを降ろしています。しかも、鼻歌まじりです。
「ふふ、いいところよ」
 和くんは、悪いことをした時、お父さんから「鼻歌でごまかすな」と叱られたことを思い出しました。
「なんか悪いことをしたんじゃないの? 二人で研究所に行ったんだろ」
「研究所ってなあに?」 お母さんがとてもご機嫌な様子で尋ねました。工事中の建物が研究所かどうかまったく分からないのに、おもわず口に出してしまったことを、和くんは後悔しました。
「ううん、なんでもない」
 心配そうな顔をしている和くんの顔を、お母さんが覗き込みました。
「変な、和くん。あ、あーそうだ。今日は理科のテストが返ってくる日だったよね。ははーあ、それで元気がないんだな。はい、テストを見せて」
 笑いながらテストを見せるよう催促したお母さんでしたが、テストを手にとって見ると、笑い顔は直ぐに消えてしまいました。そしてその後は、和くんが思っていたとおりになりました。

 翌朝学校へ行きながら、和くんと彩ちゃんが昨日返ってきた理科のテストの話をしています。お母さんからさんざん説教をされて元気がなくなった和くんを、彩ちゃんが心配しています。彩ちゃんは、今回の理科のテストは満点でした。
「彩ちゃんは、いいなあ。なぜあんな難しいテストで満点がとれるのかなあ」
「だって理科って、面白いんだもん。植物って不思議だよね。果物は、おしべとめしべから実がつくのだから。そして、あんなに甘くておいしい実になるんだから」
「そんなのあたりまえじゃん。あのね、さくらんぼはね、最初花が咲いて、その花におしべとめしべがあって、次に葉っぱが出て、花が咲いたところに実がなるんだよ。おいしいさくらんぼをつくるためには、いつ、どんな肥料をあげればよいのか考えないとダメなんだ」 お父さんから聞いた話を、そのまま彩ちゃんに話しました。
「和ちゃん、よく知っているね」
「でも肥料の話って、理科の教科書にものっていないし、テストにも出ないから、なんの役にもたたないよ」
「そんなことはないよ。ねえねえ、和ちゃんの家の畑には、さくらんぼがあるの? 野菜もたくさんつくっているんだよね。私にも見せてよ」
「いいけど…」
 和くんは、彩ちゃんがどうしてあんなおもしろくない畑に興味を持つのか分かりません。それよりも、あのお父さんとお母さんのことですから、彩ちゃんに畑仕事を手伝わせるのではないかと心配しています。もしそんなことを彩ちゃんに頼んで、彩ちゃんから嫌われたらどうしようと考えてしまいました。
 しかし彩ちゃんは、「絶対見たい、絶対行く」といっています。和くんは、しぶしぶ承知をしました。

 次の学校が休みの日、彩ちゃんは和くん家の畑に遊びに行きました。畑には和くんのお父さんとお母さんもいました。お父さんはイモを掘っています。畑の片隅にはレンガでつくったかまどがあります。そのかまどには鍋がかけてあり、今お父さんが掘ったイモをゆでています。お母さんは、ゆで上がったイモの皮を剥いていました。きれいな紫色のイモです。彩ちゃんは紫イモを初めてみたらしく、「わぁ、すごくきれい」と声をあげて喜びました。
『なんだ、イモか』 和くんは 、せっかく彩ちゃんが遊びにきたのだから、もっとごちそうを出してほしいと思いました。
「和ちゃんのことだから、ごちそうはお肉とかお魚が良かったと思っているでしょう」
「おばちゃん、あたり! 和ちゃん、給食でいつも野菜を残すものね」
 お母さんは、和くんをにらみました。その話は、お母さんには内緒だったのです。お母さんは、彩ちゃんが紫のイモを楽しそうに観察しているので、ここで和くんを叱ることはできません。
「ときどきしか残さないよ」
 ひとり言のようにつぶやく和くんに、彩ちゃんは、容赦なくつっこみます。
「うそですよーだ。いつもだよ、おばちゃん」
 口の中に入れた紫イモが、今にも出てきそうな勢いで話をするので、和くんはすっかりしょげてしまいました。お母さんは、彩ちゃんにあいづちを打って、笑いながらいいました。
「あらあら、そんなことだろうと思っていたわ。和ちゃんの野菜嫌いを直すのも、大きな宿題になっちゃったね。今日は、お父さんがバーベキューの準備をしてくれるわよ。彩ちゃんは、お肉やお魚は好きかしら?」
「はい、大好きです。私、バーベキューのお手伝いなら得意です」 
「そうなの、じゃあお願いね。その前に、紫イモでポテトサラダをつくりましょうか」
「私、手伝います」

 彩ちゃんは、和くんのお母さんにエプロンをつけてもらいました。エプロン姿の彩ちゃんはとても可愛く、和くんが“ぼおっ”と彩ちゃんを見ています。お母さんも、彩ちゃんをみて微笑んでいました。和くんは彩ちゃんの笑顔に誘われるかのように、お母さんの料理の手伝いをしようとしています。お母さんは、ゆで上がった紫色のきれいなイモをボウルに入れていました。
「じゃあ彩ちゃんは、イモをつぶしてくださいね」
 そう言って、イモをつぶすマッシャーという道具を、彩ちゃんに渡しました。
「これ、知ってる。お母さんのお手伝いで使ったことがあるよ」
そう言いながら、彩ちゃんは、ボウルの中の紫イモをつぶしはじめました。
「ぼくは、何をしようか」
 お母さんはびっくりしました。これまで和くんは、自分から料理のお手伝いをしようなんてことを言ったことがありませんでした。和くんは照れくさそうな様子で、テーブルの上のニンジンや紫イモを手にとっています。
「じゃあ、そこのゆでたニンジンとハムを切ってね」
「わかった。簡単だね」
 和くんは、包丁を使ったことはありません。少し心配顔で包丁をにぎりました。その姿を見たお母さんは、直ぐに和くんにアドバイスです。
「和ちゃん。その格好だと、きっと指を切っちゃうなあ」
 和くんの両肩はがちがちに力が入って、背中は丸まり、目は包丁に近づいています。
「道具を使うのって不思議だよ。どんな道具も、まずきちんと正しい姿勢をつくらないとうまく使えないし、それどころかケガをしてしまうの」
 彩ちゃんも、心配そうに和くんを見ています。彩ちゃんに見られて少し恥ずかしくなった和くんは、意地を張ってしまいました。
「大丈夫だよ。姿勢が悪いから指を切るなんて、そんなこと証明できないもん」
「あら証明だなんて、和ちゃん、難しい言葉を知っているのね。残念だけど、証明されているのよ」
 和くんも彩ちゃんも、手を止めてお母さんの顔を見ました。お母さんは、包丁を持って二人に説明をはじめました。

「身体はまな板から少し離すの。包丁は、押したり引いたりして使うから、身体がくっついていると手が動かなくなるのよ。足は少し開いて、右利きの人は右足を心持ち後ろに引き、腰も少し引くの。左利きの人は反対ね。そうすると身体がしっかりと安定するから。そして肩の力を抜いて楽に包丁を持つの。身体が安定して余分な力が入らなければ、いろんな動作がスムースになるのよ。これはスポーツも一緒だね。野球でも、腰をおとして身体の力をぬかないとバットがうまく振れないでしょ」
「へーえ」
 二人は、お母さんの説明を聞いて納得しました。和くんは驚いています。何故、お母さんがこんなことを知っているのか不思議でした。
「お母さん、スポーツは得意なのよ。これでもバレーボールの選手だったんだから」
「いつも勝てないチームの万年補欠選手だったけどね」
 お父さんが、とりたての野菜を抱えて、口をはさんできました。
「コホン。お母さんは、空手も得意だったってことは覚えてる? 試合で優勝したこともあるんだけど」
「あー、そうそう思い出した。バーベキューの準備をしなくっちゃね」
 そそくさと逃げていったお父さんを見て、和くんも彩ちゃんも大笑いです。和くんは空手のかっこうをして、お父さんに向かってこぶしを突き上げています。

「次は、包丁の持ち方よ。親指、人さし指、中指で包丁の柄の付け根近くをしっかりと持ち、あとの二本の指はそえている感じ。五本の指全部で握ると、力が入りすぎて包丁が思わぬ方向に動いて指を切ってしまうの。包丁の刃が動く方向をよく見て。そこに指を置かなければ指を切ることはないから。柔らかいものを切る時は、刃の先っぽだけを使えば大丈夫よ。」
 お母さんは、和くんの手を持って包丁の使い方を教えました。ニンジンを切りはじめた和くんは、自分でも上手く切れることがわかり、嬉しくなって彩ちゃんに切ったニンジンを見せています。
「和ちゃん、包丁を使う時は、包丁から目を離してはダメ。包丁を持ったまま人と話をしていると指を切っちゃうよ。話に熱中して包丁が他の人にあたることもあるから、お話をする時は、包丁はおくの」
「へーえ。知らなかった」
 お母さんの話に一番納得したのは、彩ちゃんでした。
「私ね、お母さんのお手伝いをしていて、包丁で指を切ったことがあるの。それから包丁を使うのが苦手になったけど、おばちゃんの話を聞いて、もう指を切らないような気がしてきたよ」

 お母さんは、彩ちゃんの真剣な目がかわいくて、微笑みながら説明を続けました。
「道具も、野菜や果物も、虫や動物だって、何がどうなっているのか、きちんと知ることが大切なの。そうすれば、いろんなことに役に立つし、危険なことを避けることができるのよ」
「おしべやめしべの話もそうなの」 今度は和くんが、真剣な目をしています。
「もちろんそうよ。ほら、お父さんが教えてくれたでしょ。さくらんぼにもおしべとめしべがあるけれど、そのままだとなかなか実がつかないって。ハチが、受粉といって実がたくさんなるよう手伝ってくれているのよ」
「ハチは刺すから嫌いだ」
 和くんは、急に不機嫌になって、口をとがらせてしまいました。
「でもハチは、さくらんぼには大切な友達なのよ」
 お母さんが丁寧に説明をしているのに、うつむいてしまっている和くんを、彩ちゃんがにらんでいます。和くんの後で、お父さんがかまどに入れる炭の準備をしていました。
「大丈夫だよ。ハチは和を刺すことより、さくらんぼの花の蜜の方に熱中しているから。ちょっかいを出さなければ、刺されることはないよ」
 実は以前、和くんは、ミツバチを手でつかもうとして刺されたことがあるのです。その時の痛さといったらそれはものすごくて、それから花も虫も嫌いになったようなのです。
「なんだか今日は、理科の勉強会みたいだね」
 お父さんは、三人をからかうように言いました。
「違うよ、包丁の持ち方やニンジンの切り方を教わっただけで、理科とは違うよ」
 理科のテストがよくなかったことを、和くんはまだ気にしています。お父さんは、ムキになっている和くんの気持ちがわかったようで、やさしい声でゆっくりと答えました。
「理科は、そのうち物理や化学、生物、地学などに別れて、だんだん難しいことを勉強するようになるんだ。包丁の持ち方は物理の中の力学という学問で説明できるよ」
「じゃあ、料理は」 彩ちゃんが尋ねました。
「うん、料理は物理と化学と生物と、それともっと難しくなって医学とか栄養学とか。それだけではなく、社会学や経済学や、いろんな学問がまとまったのが料理だよ」
「へーえ」
 今度は、お母さんも驚いて声を出しました。和くんは、あいかわらず不機嫌なようです。でも彩ちゃんが楽しそうに聞いている姿をみて、嫌な素振りはできませんでした。

 彩ちゃんは、再び紫イモをつぶしはじめました。和くんもニンジン、ハム、キュウリを切っています。二人がそれぞれの仕事を終えた後は、いよいよお母さんの出番です。
「さて、それじゃあ、味付けをするよ。マヨネーズで味付けをしますね」
 お母さんは、イモの入ったボウルにマヨネーズを入れました。
「ほら、ほら、二人ともみてみて!」
「うわーあ」 二人は、マヨネーズが入ったポテトサラダを見てびっくりです。彩ちゃんがつぶした紫のイモが、ピンク色に変わったのです。きれいなピンク色は、彩ちゃんのエプロンと同じ色でした。
「不思議でしょ。二人も紫イモにマヨネーズを入れて試してみて」 
 和くんも彩ちゃんも、ボウルの中の紫イモとマヨネーズを一生懸命かきまぜています。
「なったなった。ピンク色になった」
 和くんは大喜びです。彩ちゃんが不思議そうにピンク色になったイモを眺めています。
「ねえねえ、おばちゃん。どうして紫色がピンクになるの?」
「紫イモには、アントシアニンという物質がたくさん含まれているの。紫色の成分ね。これにマヨネーズを入れたでしょ。マヨネーズには酸というすっぱい成分が入っていて、この酸とアントシアニンが混ざるとピンク色になるの。アントシアニンは目の健康にいいのよ。植物のこのような成分を『ポリフェノール』といって、紫イモのほかにもレッドキャベツやブルーベリー、いちご、りんごなどにも含まれているのよ」
「あー、理科だ」
 和くんは頭を抱えて、またうつむいてしまいました。彩ちゃんはお母さんの話がわかったらしく笑顔でうなずいています。
「和ちゃん、すごいよね」 うつむいている和くんに彩ちゃんが話しかけても、あいかわらず顔をあげようとしません。
「難しくてよくわからないよ」
「大丈夫。酸やアルカリの勉強は六年生になったら、学校でちゃんと習うから。その時は、この紫イモを思い出せば、直ぐに分かるから」
「アル アン アントン… うー、覚えられない」
 またお父さんが、和くんの後から口をはさみました。
「和はマンガに出て来る名前なら、どんなに難しい名前でも直ぐに覚えてしまうのになぁ」
「それとこれとは別だ」
 和くんは、そう言いながらも、マンガの名前だと思えばいいのだと考えました。
『それとこれは、同じかもしれないなあ?』
 なんとなく覚えられそうな気がした和くんです。心の中でもう一度くり返してみました。
『アアン アトシア アントシアニン あ、言えそう』

「次は、蒸しケーキね」
 お母さんは彩ちゃんがつぶした紫イモに、米粉、砂糖、ベーキングパウダーなどのケーキの材料を入れています。二人は、今度はどんな色に変わるのかと楽しみに、お母さんが料理をしているボウルの中を覗き込んでいます。最後に卵を入れたところで、お母さんはボウルをもって立ち上がりました。
「ちょっと待っていてね」
「お母さん、どうしたの?」
「うん、電子レンジでチンするの」
お母さんは家の中に入って行きました。お母さんを待つ間、二人はどんな色になるのかあてっこをしました。和くんは赤か茶色、彩ちゃんは黄色かオレンジを予想しました。
 お母さんが帰ってきました。
「はい、さっさと召し上がれ」
「うっ」 二人は顔を見合わせて、声を詰まらせました。
「この色、すごい」
 なんと、青緑色のケーキです。ケーキというより、青緑色の土がスポンジになったような、とても食べものにはない、とにかくすごい色の固まりになっています。
「あまりおいしくなさそうだなあ」
「なあに? 和ちゃん。お母さんのつくったケーキが食べられないというの?」
お母さんは顔をしかめて、和くんをにらみながら言いました。彩ちゃんにも笑顔がありません。少し間をおいて、お母さんの顔が元にもどりました。
「へへへ、びっくりしたでしょ。このケーキには卵を入れたでしょう。卵はアルカリなの。アントシアニンにアルカリの食べものを入れるとこんな色になるのよ」
「でも、あまりおいしくなさそうだな」 和くんが繰り返して言うと、今度はお母さんもうなずきました。
「ほんとね。これは食べものの色ではないみたいね。じゃあ、目をつぶって食べてごらん」
 二人は、ケーキを少しちぎって、目をつぶって口に入れました。
「あ、おいしい、おいしいよ。おイモだ」
 彩ちゃんは、目を大きく開いてお母さんにいいました。和くんは、あいかわらず神妙な顔をしながら、青緑色のケーキを観察しています。
彩ちゃんは、大喜びです。
「おもしろい、おもしろいね、おばちゃん。アントシアニンって」
「そうね。植物は光合成といってね、空気中の二酸化炭素を使って、光のエネルギーででんぷんとか糖をつくるの。そして酸素を出すのだけれど、この時、アントシアニンのような色の素をつくるの。色だけではなく、渋みや苦味などの成分もそうなの。これはね、植物が外敵から身を守るためにだと考えられているの」
「おばちゃんすごい。科学者みたい」
「ふふ、そうでしょう。おばちゃん、科学が大好きよ。科学者は、自然の中で本当に起こっていることを見つけるのがお仕事なの。畑のお仕事は、科学者が発見したことを使ったお仕事といってもいいわね」
 お母さんの話を聞いて、和くんが尋ねました。
「畑の仕事は昔からあるでしょ。それなのに畑の仕事が科学だっていうのは、おかしいよ」
「そうね。でも科学者は、昔からいたのよ。科学って言葉は、そんなに昔の言葉じゃないけれど、人間が地球上に生まれた時から科学はあったの。だって、植物や動物の観察をしなければ、食べものかどうかもわからないでしょ。みんなが科学者だといいわね。自然の中の出来事を知るということは、毒を見分けたり、虫に会っても刺されないための知恵を知るということだから、生きていくために大切なことなのよ」
 今度のお母さんの話には、どうやら和くんもうなずいているようです。そして、先日の研究所のことを思い出しました。
「お母さん、空き地の前に白い建物ができただろう。あれって、研究所?」
「え? 研究所? けんきゅう… あーあれね。あはは、研究所だと思っていたの?」
「だって、建物から出て来る人が白い服やマスクをしていて… それでお父さんもお母さんもそこにいるのを見て… 爆弾、つくっていないよね」
「ばくだん? 何いってるの和ちゃん。ばくだん? あははは」
 あまりにも大笑いをするお母さんを見て、和くんは少し腹が立ってきました。でも、お父さんやお母さんが悪いことをしていないと分かって、安心もしました。

「さあ、次はバーベキューだ。お肉もお魚もたっぷり準備したよ」
 準備を終えたお父さんが、皆を呼びました。お母さんは、まだ笑っています。お肉がじゅうじゅうと焼けていて、おいしそうな匂いが漂ってきました。
「わーい」
 彩ちゃんが大きな声を上げ、バーベキューのかまどの側へ走って行きました。和くんも彩ちゃんの後を追い掛けました。お皿とハシを持っている和くんの笑顔は、前と違って一段とはじけたように思います。それは、バーベキューが食べられるからだけではなさそうです。もしかしたら、和くんの理科ぎらいが少し直ったのかもしれません。なぜならば、バーベキューを食べながらの会話は、理科のことばかりだったのです。そして、あれだけ嫌いだった野菜もおいしそうに食べているからです。
「アントシアニンもおもしろいけれど、やっぱりお肉が一番だな」
 大きな口をあけてお肉を食べている和くんを見て、お父さんもお母さんも少し驚いている様子でした。だってあの和くんが、「アントシアニン」という言葉をすっと言ったのですから。

 お父さんが、彩ちゃんに尋ねました。
「彩ちゃんは、大人になったらどんなお仕事をしたいの」
「うーん、私、コックさんになりたくなった。お料理ってとってもおもしろいもの。おいしいものも大好きだし」
「いいねぇ。おじさんも、是非、彩ちゃんのつくったお料理を食べたいな。そうだ、その時のお酒はワインがいいな。さっきの話のポリフェノールがたくさん入っているからね」
 お父さんは、ビールをおいしそうに飲んでいます。
「ポル、ポリ、ポリフェノールだね」
 和くんが、先ほどつくった紫イモのポテトサラダを食べながら確認しています。
「お、めずらしく和が化学物質の名前を覚えたぞ。どうだ、和は科学者にならないか」
 お父さんの突然の提案に、お母さんも彩ちゃんも、それはないだろうと思いました。しかし和くんは考え込んだままです。あの青緑色のケーキをにらみながら、何やらうなずいているような仕草をしていますので、本気で科学者になろうと考えているのかもしれません。そんな和くんを見て、お母さんと彩ちゃんが顔を見合わせてくすくすと笑っていました。
 
 バーベキューの締めくくりは、ケーキです。
「今度は、ちゃんとしたケーキですよ。さあ、めしあがれ」
 お母さんが持ってきてくれたケーキは、先ほどつくったポテトサラダより、更に鮮やかなピンク色をしたケーキでした。それを見た彩ちゃんが、大きな声を出しました。
「あー、『ピンクの妖精』だ。この前、私のお母さんが買ってきてくれたの。『畑からのおくりもの』っていうケーキ屋さんが新しくできたからって」
「あー」 和くんも大きな声を出しました。
「このケーキ、おばちゃんが考えたの?」
和くんの隣で、お母さんがうなずきながら微笑んでいます。空き地の前の白い建物は、ケーキ屋さんだったのです。そのケーキ屋さんは、畑でとれた野菜や果物を使ってたくさんの種類のケーキをつくっていました。
 そうです。和くんのお父さんとお母さんは、そのケーキ屋さんに畑からとれた野菜や果物を届けているのです。それだけでなく、ケーキ屋さんと一緒においしいケーキを開発していました。和くんが見た白い服を着たお父さんとお母さんは、ちょうど、そのケーキづくりの研究をしていた時だったのです。そのことを知った和くんの笑顔は、もっともっとはじけていました。

 さて、それから二十年後のお話です。紫イモのポテトサラダをつくった後、彩ちゃんの料理熱は一層強くなりましたが、コックさんになったのは和くんでした。パティシエというお菓子をつくる仕事もしています。もちろん、お父さんと一緒の畑仕事も、和くんの大切な仕事となりました。
 彩ちゃんはというと、大学の研究室で、有機化学の研究をしているとのことです。例のポリフェノールの研究だそうです。難しそうな仕事ですが、なにしろ勉強好きの彩ちゃんのことですから、毎日が楽しくて、そしていそがしい日々を送っているようです。
 彩ちゃんのもう一つの楽しみは、和くんの家の畑でのバーベキューです。晴れた日には、和くんのお父さんとお母さん、そして和くんと一緒に楽しんでいる姿をよく見ます。レンガ造りのかまどは、新しくて大きなかまどに変わりました。でも、彩ちゃんが持っている包丁は、和くんが初めて使ったあの包丁です。たぶん和くんのお母さんのお気に入りなのでしょう。
 彩ちゃんの横で、小さな子が紫イモをつぶしています。きっとこの子も、和くんと彩ちゃんから理科の楽しさ、おもしろさを教えてもらうのでしょうね。

                                     おわり

 書いた日 2015.03.28
                         一部修正 2015.08.29

 科学って楽しいの?

 最近は、おやじの会の活動からずいぶんと離れてしまいました。唯一続いているのが、子ども達に科学の楽しさ、面白さを伝える「わかとり科学技術育成会」の活動です。それも裏方の仕事ばかりとなってしまいましたが、子ども達の歓声や喜ぶ顔をみると嬉しくなって、また来年も・・・と力が入ってしまいます。
 わかとり科学技術育成会の活動は、今年で18年目となります。私は途中からの参加でしたので通算13年目。よく続いていると自分でも感心しています。最初に私が参加した平成15年のイベントの参加者は、2日間で約1万人でした。主催者の過大発表かと思いましたが、本当にすごい数の子ども達が集まってくれたことを覚えています。この時「現代の子ども達は科学離れが進んでいる」という話は嘘だと思いました。会場にいる子ども達は皆、本当に楽しそうに科学と遊んでいるわけですから。
 しかし、やはり「科学から離れているな」ということをつくづく実感します。何故かというお話をすると、うるさいおやじになってしまいます。そこで、小説に書いてみようと思いつきました。相変わらずの駄文が並ぶのですが、まあ、誰も読んでくれないだろうからとお気楽気分で書いてみました。
 ちまたでは芥川賞のピース又吉さんが大人気です。彼のような才能があれば、子ども達に科学の楽しさを伝えることも簡単ではなかろうか・・・などと思いつつ、今年もイベント準備にとりかかりました。
 科学って楽しいの?
 楽しいですよ! 
 小説を書いてみようと思ったり、つまんない裏方仕事もやる気になるのですから!! 

 つぶやいた日 2015.08.29