冬の港

昭和30年頃の鳥ケ島

 山陰のどんよりとした冬の空は、私は嫌いではない。
 天気が悪いからといって、いつも厳しい風が吹いていたり海が荒れていたりするわけではないが、「山陰」という言葉は、どうも冬の港を暗いイメージにつくりあげてしまう。
 確かに、冬の海は鉛色だ。空が低くなり、白波とくっついてしまう風景は「どんより」という表現がぴったりである。そして力強さやたくましさを覚える風景であり、心を和ませてくれる日本海の本当の姿だと思っている。

 今朝も少し海岸を歩いてみた。
 打ち上げる波は少々高かったものの、いつもと変わらない海岸風景だ。ちょうど数隻の漁船軍団が出港しようとしているところに出会った。私の友人の漁師の船は小型であるため、今日は陸で仕事だという。海はそんなに荒れていなくても、天候がめまぐるしく変わるこの時期は、彼の小さな船では無理ができない。

 「まあ休息だね。」と言いながら、「冬の休息は多すぎる。」としかめっ面。
 「海に出なければ収入はゼロだから。」と、いつもと同じ愚痴も出る。しかし、激務の漁仕事から一時解放されるのは確かだ。天気が良ければ体がきつくても海に出続けなければならないのが漁師なのだから、冬の海のやさしさに少しだけ感謝してあげてくれ。

 昔の漁師のことを少し思い出した。
 彼らは本当に貧しかったのだろうか。船主の家はそれはもう立派な造りであったのだが、多くの友人の家は港町特有の急傾斜の丘にびっしりと並べられた箱であった。道路もほとんど整備されておらず、子どもたちは隣接する家の中を縦横無尽にとおり抜けて遊んでいた。トイレのくみ取りさえ、他人の家の中にホースを通さなければならなかった。

 もちろん子どもの私にとってはそんな事情には無頓着であったが、彼らの弁当には、少し思い出がある。私の母は、いつも彩りよく飾った弁当を持たせてくれた。漁師の息子である友人の弁当はといえばちくわやてんぷらがメインで、とにかく色が少なかった。なぜか、弁当の中身を隠しながら食べていた子どももいたことを覚えている。
 いたずらな友人は、よく私の弁当のおかずを横取りした。2、3人からおかずを取られると弁当箱はもう空っぽ。仕返しに彼らのおかずを頂戴する。賀露のスルメやちくわは本当に美味しかったが、やはり子どもとしては彩りのあるたまごやハムの方が魅力的であった。
 
 彼らの弁当のおかずに彩りがない理由を推測できたのは、つい最近のことである。
 貧しかったかどうかは別として、漁師の家では必ずといっていいほど夫婦共働きであった。それは、昔ながらの風習である。港の時計は今も変わらない。母は朝早くから港へ出て漁師の夫と共に仕事をする。船から魚をおろし、種類、大きさごとに選別して市場へ出し、後片づけが一段落するのは9時頃だ。市場が終わっても魚の干物を作ったり、漁を終えて飲んだくれている夫の世話で一日中働きどおしだったのだろう。もちろん今みたいに、簡単に弁当の惣菜が手に入る時代ではない。ゆっくりと弁当をつくる時間なんてなかったに違いない。
 よくよく思い出せば我が家でも、夜の食卓にはちくわやてんぷら、魚や芋、野菜の煮物ばかりで、肉や卵などはほとんどなかった。そんな時代に弁当に彩りを考えながらおいしいおかずを入れてくれた私の母には、ただ感謝である。

 夏休みになると、漁師の子どもたちが魚の荷下ろしを手伝っている姿をよく見る。たぶん昔は、子どもたちは皆両親と一緒に働いていたのであろう。彼らは皆足が速く、力持ちでけんかが強かった。
 当時の母たちもみんな年老いた。昔の威勢はなくなったが、人なつっこい目は昔とかわっていない。よく覚えていないがたぶんそうだったと思う。50才を超えるおやじに向って「あ〜ら、あなたは○○ちゃん。まあ〜おせになって(大人になって)。」とお褒めをいただいた時の老婆の目に、私もついつい子どもに返ってしまった。

 海と共に人生を刻んだ母たちは、きっと不平や不満もすべて漁場の激務に捨ててきたのであろう。愚痴をこぼしたって誰も本気で聞いてくれる訳がない。みんな海が聞いていた。港で育った女性は、港に嫁いで、死ぬまで港で暮らすことが多かったらしい。だれが好んで港の漁師の嫁になりたがる、という話も聞いたことがある。
 今、漁師は少なくなった。若い奥さんのほとんどは港の外から来ている。彼女らは海と人生を刻むなんてことは決して思わないだろうし、それもまた良い時代になった証だと考える。

 潮の香りの気持ち良さもいつもと同じ。
 また明日も寄ってみよう。

つぶやいた日 2006.1.31

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